なかなかなかね野鳥と自然の写真館

疾風怒涛の時代が過ぎ去っていきます。私たちがその中で、ふと佇む時、一時の静寂と映像が欲しくなります。微妙な四季の移ろいが、春や秋の渡りの鳥たちや、路傍の名もない草花にも感じられます。このブログは、野鳥や蝶、花や野草、四季の風景などの写真を掲載しています。

冬空に舞うノスリ

青空高くノスリが舞っています。

広大な草原に北風が激しく吹き荒れています。そんな中、多くの鳥たちは、物陰に潜み、飛び立とうとはしません。上空は、それほど風が強くないのかもしれませんが、ノスリは悠然と舞っています。

ノスリは、草原や農耕地など開けた場所を好み、ネズミや蛇などを餌とする猛禽類の一種なのですが、この季節にエサを探すのは、容易ではないのかもしれません。

ぐるっと旋回しながら、だんだん遠ざかってゆきました。




閑話休題成田不動尊と歌舞伎


成田山不動尊は、千葉県成田市にある成田山新勝寺の本尊です。成田山とは山号で、寺号を新勝寺と称し、新義真言宗智山派のお寺です。

新勝寺寺伝によれば、このお不動さんは、弘法大師が彫刻して、もとは、京都高雄山神護寺(じんごじ)護摩堂の本尊でした。

天慶2年(939年)、下総国(しもふさのくに=千葉県)で、平将門(たいらのまさかど)が反乱を起こしたとき、勅命により寛朝僧正(かんちょうそうじょう)に天国(あまぐに)作の宝剣を授(さず)け、朝敵降伏(ちょうてきごうぶく)の護摩(ごま)を修せられました。寛朝僧正は前記の不動明王と宝剣を奉持して下総国に下り、祈祷(きとう)しました。

その効き目もあったのか、「平将門の乱」平定後、僧正は印旛郡君津ヶ原にお堂を建て神護新勝寺と名付けました。

その後元禄年間に現在の成田に移ったが、明治時代までは、高雄山神護寺に対して毎年、本尊の借り賃を支払っていたようです。

新勝寺の寺伝によれば、その起源は940年とのことですが、その後の記録はしばらく無くて、現存する判読できる板碑に1336年と1394年記録があるそうです。そこには、阿弥陀如来梵字が書かれているようです。

この時代に信者がいたことは確認できますが、明らかな記録はないようです。


記録は1700年代慶長年間から現れます。その頃までの新勝寺は、弥勒寺(みろくじ)の末寺(まつじ)の小さな寺だったようです。

新勝寺が、爆発的に発展したのは、1700年に住職になった成田山中興の祖といわれる照範以降と言われています。

それは、歌舞伎と成田山との結びつきから生まれたようです。


ウィキペディア成田屋の説明(省略加筆しました)によると


初代市川團十郎の父は成田山新勝寺にほど近い地の出身だったようで、子に恵まれなかった初代團十郎が、この父由縁(ゆかり)の成田山に子宝祈願をしたところ、見事翌元禄元年 (1688) に二代目團十郎を授かったそうです。この子はすくすくと成長したので、初代團十郎は、元禄八年 (1695) 山村座で「成田不動明王山」を上演。これが大当で、舞台には銭10貫もの賽銭が投げこまれ、大向うからは「成田屋っ!」という掛け声が掛かったといいます。これが「成田屋」の屋号の由来とのことです。

元禄十六年四月廿一日 (1703年6月5日) は成田山の出開帳に当たったが、このときも初代團十郎は御開帳に合わせて森田座で「成田分身不動」を初演した。これがまた大当たりとなり、以後初代團十郎成田山の提携が続く。成田屋に宣伝された成田山は一躍江戸っ子に人気の参拝地となり、地元経済はおおいに潤った。成田山詣での参拝者であふれる「佐倉街道」の名が「成田街道」に変わってしまったのもこの頃からのようです。

こうして、成田山新勝寺の御利益が成田屋市川團十郎家の成功を導き、その成田屋の繁栄が成田山の霊験をますますあらたかにしている、という持ちつ持たれつの関係が築かれ、これが300年を経た今日にまで引き継がれているとのことです。

初詣に行かれた時に、一緒に行かれた人との話題としてみては如何でしょうか?