なかなかなかね野鳥と自然の写真館

疾風怒涛の時代が過ぎ去っていきます。私たちがその中で、ふと佇む時、一時の静寂と映像が欲しくなります。微妙な四季の移ろいが、春や秋の渡りの鳥たちや、路傍の名もない草花にも感じられます。このブログは、野鳥や蝶、花や野草、四季の風景などの写真を掲載しています。

手賀沼遊歩道のバン

朝、暗いうちに手賀沼遊歩道脇の手賀沼の岸辺にバンが2羽うごめいています。

暗いので、バンたちに私の姿はよく見えないのかもしれません。バンは警戒心が強いので昼間に目の前で動き回ることはあまりないように思います。

いろいろな仕草を見せてくれましたが、光が少ないので色がはっきり見えません。

残念ながら、暗いうちは、写真撮影には向いていないのですねぇ〜。






この記事を書いた後で、私のブログのなかに「以前」同じ場所で昼間撮ったバンの写真がありました。ここのバンは、昼間でも平気なのかもしれません。

人に慣れて警戒心が少ないのかもしれません。

2013年2月4日掲載のバンの写真




閑話休題ー般若心経の現代的解釈と現代の量子力学



国立民族学博物館名誉教授の立川武蔵氏の著書「般若心経の新しい読み方」(春秋社2001年)にインド、中国、チベット、日本での「般若心経」特に「色即是空」に関する比較相違について解説がありますが、その中から日本の最初期の解釈と現代の解釈について比較対比してみます。その後、現代の般若心経の解釈と量子力学との類似性について述べてみます。


我が国の本格的な般若心経の注釈書は、8世紀の奈良の元興寺三論宗のお坊さん智光(ちこう)が書いた「般若心経述義」と言われているそうです。

彼は、当時の中国「唐」時代の高僧「基」や「円測」の解釈は、間違っていると批判しているそうです。当時の先進国「唐」の一流の学僧の説を批判することには相当の覚悟があったこととも思われます。

「基」や「円測」は、般若心経は「不了義」の経典といっていますが、「智光」は、「了義」の経典であるといっているそうです。

従来、経典は、二種類に分類されていて、完璧に述べられているものを「了義」といい、まだ少し隠すのを「不了義」というのだそうです。

「智光」は、色というものが自性がないということから、色と空とは等しいのだ、というような考え方をしています。「色というのは因縁であり仮としての色(仮色)である。そして、空というのは中道だ」とも言っています。

つまり、ただ単に色が実体がないということを強調して、色と空とを近づけるというよりは、空性と中道と実相ということを同一視しているというところに彼の特徴があるのだそうです。

ですからこのもっとも初期の日本の注釈家は、日本的な諸法実相の世界に傾いているようです。

紙幅の関係で近代までの日本の注釈家の解釈は省略して、アメリカに禅を伝えた鈴木大拙氏の解釈を述べてみます。

鈴木大拙氏の理解

「色という限定が空という無限定に融けこむところ、これと同時に空が自分自身を色という限定に映じているところ、ここに悟りという無媒介の感覚が可能となるのである」(鈴木大拙全集20巻)

この解釈では、色が二種類に区別されていない。色と空、有と無とがひとつであると同時に別であるという矛盾的な関係が成立しているそうです。



不確定性原理

1927年にハイゼンベルクが提唱した量子力学における基礎的原理で原子や電子などの世界では、「ある物質に関する「位置」と「運動量」を測定するとき両者を同時に一つの値に確定することができず避けられない不確かさが残る」というものです。

つまり、量子論は、物質や自然がただ一つの状態に決まらずに非常にあいまいであることを、そしてあいまいさこそが自然の本質であることを私たちに示しているのです、

現代の量子力学では、真空は決して「空っぽ」の空間ではなく複雑きわまる物理系でありこの宇宙のすべてが真空から生まれたと考えているようです。

反粒子があるとすると粒子と反粒子が突然ぱっと現れたり逆にそこにあった粒子と反粒子がぱっと消えたりします。

これは、ハイゼンベルク不確定性原理で許容されるようです。

真空から粒子が現れるとは、まさに「無から有が生ずる」ことです。

ここでは色と空、有と無とがひとつであると同時に別であるという矛盾的な関係が成立しているわけです。

私には、現代の量子力学鈴木大拙氏の「色即是空 空即是色」の理解との共通性が見られるような気がします。