なかなかなかね野鳥と自然の写真館

疾風怒涛の時代が過ぎ去っていきます。私たちがその中で、ふと佇む時、一時の静寂と映像が欲しくなります。微妙な四季の移ろいが、春や秋の渡りの鳥たちや、路傍の名もない草花にも感じられます。このブログは、野鳥や蝶、花や野草、四季の風景などの写真を掲載しています。

遊びをせがむモズ

午前中の写真撮影を終えて、手賀沼遊歩道を歩いていると、頭上で何度もスズメの鳴き声が聞こえます。

ふと、見上げると、枝にとまって鳴いているのは、スズメでなくモズでした。

一枚撮影しましたが、枝被りなので、それ以上撮影しないで近くのアズマヤでお昼の弁当を食べ始めると、そのモズがアズマヤのまわりの木の杭の上を飛び跳ねています。こちらに見せつけているようです。

今日は、もうモズの写真は、十分撮影したので、このモズを撮影しないで食事に専念しました。その後すこし休憩して、帰り始めると、モズが飛んできて、私の進行方向の街路灯の上にとまりました。

せっかく来たので一枚だけ撮影したら、今度は、私の近くの木の杭にとまって、こちらを見ています。

可愛いので、もう一枚とりました。すると。そこから飛び立って、さらに私に近い杭にとまって、こちらを見ています。

そのうちいろんなポーズをとりはじめました。

可愛いので何枚も撮影してしまいました。

そのうちこの杭からまた飛んで、後姿を見せてくれました。

このモズを撮影するつもりは全くなかったのに、この鳥の遊びに付き合わされてしまいました。

でも、可愛いモズなので、また、遊んでやるつもりです。





閑話休題ー「ブッダの中道」と「素粒子物理学」 
     ーThere is something in nothing.ー



原始仏典として、 「スッタニパータ」「ダンマパダ」 (法句経) 「 テーラガータ」 「テーリーガータ」「サンユッタ・ニカーヤ』」(阿含経』 相応部)などがよく知られています。

その原始仏典の一つである「サンユッタ・二カーヤ」は、実際にブッダが発したとされる言葉の数々が紹介されています。

その中に仏弟子論議第一といわれたカッチャーヤナに語った「有無二辺の中道」について、 八正道の第一番目に置かれる「正見」とは? との質問に答えて

カッチャーヤナよ、あるがままに正しい智慧(ちえ)をもって、世間における集起(じゅうきー集まり起こること)を見るものには、世間において「無いこと」はない。
カッチャーヤナよ、あるがままに正しい智慧をもって、世間における滅を見るものには、世間において「有ることは」はない」

つまり、「一切は有る」という極端にも「一切は無い」という極端にも近づくことなく中道によっていくのが「正見」であるとブッダは教えたのです。

また、ブッダの死後、仏教思想を構築した龍樹(りゅうじゅ)の主著「中論頌(ちゅうろんじゅ)に

「行為と煩悩(ぼんのう)が滅するから、解脱(げだつ)がある。行為と煩悩は、思慮分別(しりょふんべつ)によっておこる。これらは、多様な想いやことばの世界は空性の中に滅するのである」
また、さらに
「他によるのではなく寂静(じゃくじょう)であり多様な想いやことばによってさまざまに言論されることなく、分別のないものであって、種々なのではない。これこそが、真実の姿である」

大乗仏教は、独特な方法で非実在性を主張しています。

般若経典(はんにゃきょうてん)の一つである「金剛般若経(こんごうはんにゃきょう)」には

如来(にょらい)によって説かれた「完全な智慧」(般若)は「完全な智慧」ではない」

と書かれています。

この表現は「Aは非Aである」という表現方法をとっています。

「Aは非Aである」ということは、日常の世界ではありえないのですが、大乗仏教徒はあえてこの表演方法を用いたわけがあるのです。

そのため、龍樹は、中論で否定語(八不)しか使わず色即是空とはあえて言っていないのは、言葉では表しえないと考えているからだと思われます。

つまり、絶対的真理の世界つまり悟りの世界がわれわれの言語を拒否していることを伝えているのです。



現代の「素粒子物理学」では、真空は決して「空っぽ」の空間ではなく複雑きわまる物理系でありこの宇宙のすべてが真空から生まれたと考えているようです。

ディラック反粒子の考え方は、今日「真空では、粒子と反粒子がたえず生成・消滅をくりかえしている空間」と考える「場の量子論」の誕生につながりました。

つまり素粒子物理学は、私たちの普通に考えている真空の「何もない空間」という概念を変えてしまいました。そこでは粒子と反粒子がセットとなって生まれたり消えたりすることをたえず繰り返しているというのです。

この両粒子は、常にペアで生まれペアで消滅します。当然ですが、両粒子の数は、常に同数です。

1930年代初頭、人類は初めて反粒子の存在に気づきその実証を手にしました。この突然の弟の出現は、人々を驚かせました。反粒子があれば当然それから作られる反物質が存在してもおかしくありません。電子と陽電子の関係も粒子と反粒子の関係とおなじなのです。

現在の宇宙物理学によれば、宇宙の膨張とともに温度が下がってくると飛び交っている粒子や反粒子のエネルギーは対生成をするには不十分になってきます。その結果、対消滅が優りついには粒子か反粒子のどちらかが無くなるまで対消滅が進みます。

つまり、粒子、反粒子がまったくの対称性ではなかったことを意味します。

以下の説明は、東京大学 大学院理学系研究科・理学部の特集記事
ーCP対称性の破れの起源の解明ー から引用させていただきます。

「電子には陽電子,陽子には反陽子というように,すべての粒子には電気的性質が逆でそれ以外の性質がほとんど同一な「反粒子」が存在する。電気を帯びていないエネルギーから始まった原始宇宙には,粒子と反粒子が同数ずつあったはずである。しかし,誕生から約137億年たった現在の宇宙は,粒子だけからできており,反粒子でできた反宇宙は存在しない。宇宙の進化の過程で,反粒子は消滅したことになる。すべての物理法則が粒子と反粒子の入れ替え(CP変換)で不変(CP対称)であるならば,宇宙の進化を説明できない。つまり,CP対称性は破れていなければならない。

素粒子に働く4種の力のうちのひとつ「弱い力」がわずかにCP対称性を破ることは1964年発見されていた。弱い力は,粒子がより軽い複数の粒子に崩壊する原因となる力であり,宇宙の進化に不可欠な力である。なぜ,弱い力だけがCP対称性を破るのか謎であったが,1973年に小林誠益川敏英は,陽子や中性子を構成する素粒子クォークは2種でひとつの世代をつくり,2種類×3世代=6種類のクォークが存在すればCP対称性が破れるとする理論を発表した。素粒子研究者のほとんどが,クォークは,実在の素粒子ではなく単なる数学的モデルで,しかも3種類あれば十分であると思っていた頃の話である。

その後,高エネルギー加速器を使った実験によって,クォークは実在し,しかも6種類あることが明らかになった。6種類目のクォークが発見されたのは1995年である。小林・益川理論のエッセンスは,3世代のクォークがあって初めてCP 対称性が破れるという点にあるから,第3世代に属するクォークからなる粒子B中間子を使って,予言どおりCP対称性が破れるかどうかを測れば検証できる。高エネルギー加速器研究機構KEK)の実験グループは,B中間子ファクトリー加速器を使って2001年夏,小林・益川の予想が正しいことを示す実験結果を得ることに成功し,クォークのCP対称性の破れの起源の解明に終止符を打った(図ー図表は省略しました。)

現在,小林・益川理論は,南部の示したゲージ対称性の自発的破れのメカニズムときわめて整合性がとれた形で,素粒子理論の骨格をなしている。自然のもつ対称性には深淵な意味がある。が,対称性の破れには,さらに深淵で根源的な意味があるのである。」



このような「真空のゆらぎ」を言葉であえて表現すれば、「Aは非Aである」という金剛般若経の表現となるのかもしれません。

私には、同質性があるような気がするのですが・・・