なかなかなかね野鳥と自然の写真館

疾風怒涛の時代が過ぎ去っていきます。私たちがその中で、ふと佇む時、一時の静寂と映像が欲しくなります。微妙な四季の移ろいが、春や秋の渡りの鳥たちや、路傍の名もない草花にも感じられます。このブログは、野鳥や蝶、花や野草、四季の風景などの写真を掲載しています。

大空を飛ぶヨシゴイ

印旛沼上空を飛ぶヨシゴイです。

ヨシゴイは、飛ぶのが得意のようで、アシ原から飛び立ってはるかな彼方(かなた)に行くために大空を気持ちよさそうに飛んで行きます。

地上の蒸し暑くてあえいでいる私たちを下にみて、夕立の気配のする印旛沼上空をスイスイと渡っていきます。

早く帰らないと降られてしまいそうです。





閑話休題ー六祖檀経(ろくそだんきょう)


毎年、猛暑の時に仏教書を読むことにしています。今日は、禅宗(ぜんしゅう)の「六祖檀経」です。


六祖とは禅宗の始祖、菩提達磨(ぼだいだるま)から六代目にあたる慧能禅師(えのうぜんじ)のことを言います。

歴史的にみると、慧能禅師の弟子がそれぞれ臨済宗(りんざいしゅう)、曹洞宗(そうとうしゅう)に発展したとされてます。

「六祖檀経」は慧能禅師が六祖となった経緯と彼が大衆のためにした説法を弟子たちが記録したものとされています。いくつかの異本があるそうですが入手しやすいタチバナ教養文庫の中川孝著「六祖檀経」を読んでみます。

当然ながらこの原文は漢字ばかりで書かれているので、楽に読める読み下し文と解説付きのこの本がおすすめです。

その中の一部分をご紹介します。この文の後で般若心経でおなじみの般若波羅蜜について書かれていますが今回は省略します。   


六 説一体三身仏相門

二十四   自性の三身仏

諸君、肉身は家屋である。こんなものに帰依するとはいえない。法・化・報の三仏身は、自己の本性のうちにあるのだ。世の中の人には、自分の心を見失っているがために、自己の本性のうちにあるものに気づかないで、外に向かって三身の仏を探し、自己の中に過去・現在・未来の三世の仏がいることに気が付かないものが多くいる。

諸君、君たちの心が本来の真性に帰依するのは、つまりまことの仏に帰依することなのだ。自ら帰依するとは、自己の本性のうちに浮かんでくる善くない心・妬み憎む心・おごり高ぶる心・我を通そうとする心・偽りででたらめな心・人を軽んずる心・あなどる心・邪な見解・高慢心、そしてあらゆる場合の善からぬ行為を払い捨てて、いつも自分で自分の過ちを反省し、他人の好き嫌いをいわぬのが、これが自ら帰依するということだ。
いつもどこまでも心を謙虚にして、信義が厚い、これが自己の真性を徹底的に見極めて、けっしてどこにも滞ったり妨げられたりしないことであって、これが自ら帰依するということなのだ。

慧能禅師は、無学であったのですが禅宗の六祖になった人なので、在家の人にも易しく禅宗の極意を教えてくれます。

いつも仏教書を読んだ時だけ、心が清浄になるようなのですが、すぐによこしまな心がわいてきます。この繰り返しですが、あまり気にしないで読み続けていくつもりです。