なかなかなかね野鳥と自然の写真館

疾風怒涛の時代が過ぎ去っていきます。私たちがその中で、ふと佇む時、一時の静寂と映像が欲しくなります。微妙な四季の移ろいが、春や秋の渡りの鳥たちや、路傍の名もない草花にも感じられます。このブログは、野鳥や蝶、花や野草、四季の風景などの写真を掲載しています。

枝から枝に飛び移るエナガ

秋の少し曇り空、木々の葉も色づいて、風が吹くとハラハラと落ち葉となって地上に舞い降りています。

色づいた林の中にシジュウカラの混群がやってきました。

その中にシッポの長いエナガがいました。

枯れ枝にとまりました。

エナガは、ゴマ粒のような小さな目と、とても小さなクチバシを持つ可愛い小鳥です。
全長は14cmでスズメと同大ですが尾羽が長いので体は、ずっと、小さな鳥です。

すばやく枝から枝に飛び移りながら樹木の枝先の小さな虫を食べているようです。

牛若丸のようにヒラリヒラリと木々の間を通り抜け、あっという間に姿を消しました。

シジュウカラの混群は、ワァーとやってきてサァーと消え去っていきました。

あっという間に「秋の静寂」があたりをつつみこんでしまいました。


詩人の尾崎喜八(おざききはち)の詩文集「美しき視野」のなかにシジュウカラエナガの混群についての文章がありましたので、以下に紹介させていただきます。

シジュウカラエナガの混群がリスを襲(おそ)うドラマが描かれています。

文中のチゴハヤブサはなかなかみることはできませんねぇ〜。(私のつぶやき)


「美しき視野」    尾崎喜八



秋の林にて(一九四七年)


 十月の秋がすべての落葉樹の葉を黄に赤に赤銅いろに染め、さらに深い葡萄酒色や紫にさえ彩って、ここ信州八ガ岳裾野の分水荘の森は晴天つづきの一週間、さながら音も熱もなく燃える炎の世界か童話劇の舞台である。その絢爛たる樹下の小径を落葉の匂いや菌類の香をかぎながら一人静かに逍遙したり、小さい生物の営みの中で思わぬ見ものに遭遇したりすることは、一日の仕事に倦んだ私にとって何という楽しさだろう。
 きょうも一綴りの紙とペンとを机の上に残して、私は小径と自分の足の気まぐれとの導くままにこの秋の林の静寂の中をそぞろあるいた。午後三時の太陽はふかぶかと樹々の間に射しこんで、逆光で見るあらゆるもみじに色とりどりの落葉はしっとりと湿めっている。それでも私はいつものようにできるだけ足音を忍ばせて歩いた。いつ始まるかも分らない森の中の自然劇に備える者は、決して異様な物音を立ててはならないからである。もしもポキリと枯枝を踏み折ったり、うっかり咳払いでもしたら、そこらにひそんでいる小さい鳥や獣を驚かせて、せっかく見ることのできたかも知れぬ一幕を見損わないとも限らない。それにこんな時には喫煙も厳禁だった。彼らはどこかで微かに煙の煙のにおいがしてさえ、忽ち嗅ぎつけて逃げ出してしまうであろう。
 半時間ばかりぶらぶら歩いた末に、私はいつもの休み場所のいつものクルミの樹の下へ腰をおろした。そこはこの森の中でもいちばん奥まった所にある百坪ほどの明るい空開地で、いくらかくぼんで湿めった地面には二三種類の羊歯が繁茂し、周囲に白樺、赤松、ハンノキなどの高い木立をめぐらして、世の中からも風からも全く遮断された別天地である。春は湧水が溜まって小さい池になり、あたりは色々の小鳥の好個の営巣地になっているが、雛の養育をおわった彼らが渡りの旅に出発したり附近の林や耕地に四散してしまった今では一日じゅう森閑として、ただ時おりこの森に冬もいついているカラ類やキツツキの仲間が訪れて来るくらいのものだった。
 私はクルミの老木に背をもたせて桔梗いろに澄んだ十月の空を見上げ、おりからの夕日の光にひときわ冴えた松の緑やハンノキの高枝を飾る透明な黄銅いろの葉むらを眺めながら、以前ソローやジェッフリーズの本で羨ましく思ったこんな境地を、いま自分の書斎から数歩の所に持つ幸福をしみじみと考え味わっていた。
 と、突然、森のむこうの奥の方が何となくざわついて来たのに私は気がついた。それは人声でもなく、急に吹き起った風の音でもなく、経験ある耳ならば直ちにそれと理解する小烏の群の接近の音であって、フランスの鳥類研究家ジャック・ドゥラマンのいわゆる Ronde des Mésanges 「カラ類の巡邏」が、木の間に響かせる無数のすばやい翼の音や、短かい鋭い叫びだった。私は身をすくめてぴったりとクルミの根方に寄りそった。と、もう先頭のシジュウカラがつぶてのように飛び込んで来て眼の前の空開地を斜めに突切り、往手に出ていたハンノキの黒い小枝を引掴んで「ズッチョピー・ズッチョピー」と鋭い声をふりしぼった。頭を包む黒頭巾の中から黒玉のような両眼を輝かせ、黒と白と灰緑色の衣裳にきびきびと身をかためた一群の指導者、闘志に猛ける精悍な雄だった。
 私が息をころして待つ間もなく、続いて二羽、三羽、十羽という同じ仲間が、突風に吹きちぎられた木の葉のようにパラッパラッと羽音をたてて散り込んで来た。自然の中の簡潔の精神、羽毛の弾丸。性急で、敏活で、好戦的で、露ほどの感傷も持合わさないこのシジュウカラの殺到に、静寂な秋の林が一瞬のうちに異常な活気を呈して来た。彼らはいずれも耳に浸みとおるような、「チイチイチイ」や、激しく叱りつけるような「ズッチョピー・ズッチョピー・ツクツクツク」を叫びながら、頻りなしに樹から樹へ飛びうつり、強い嘴で忙しく幹を叩き、身を逆しまに針金のような小枝を渡って、寸時もじっとしていなかった。そしてこの精強な一群のあとには隊商の中の女たちとも見えるエナガの群が二十羽あまりも随って、持前の優しい性質からシジュウカラとは少し離れた樹々の間に散り、「ジュル・ジュル」という柔かな含み声や、細い糸のような「チイ・チイ」を聴かせていた。その白と葡萄いろの羽毛に包まれた細そりした小さいからだは、ややもすれば白樺の白い枝や空の光にまぎれるのだった。
 ところが見ものは単にこれだけでは無かったのである。私もカラ類の巡回はこれまで幾度か見ているが、今の彼らのこの興奮にはどことなくふだんと違ったもののあることにさっきから気がついていた。彼らがこんな興奮を示す場合には、かならず何か特別にその注意をひいたり気持を 苛立たせたりする物が近くにあるか、あるいは彼らの嫌悪する他の動物が近所にいるかするものである。それならばその対象は私だろうか。自分ではうまく身を匿しているつもりでも、もう疾くに目敏い彼らに姿を発見されてしまったのではないだろうか。そう思っていよいよ身をすくめていたが、やがてじきにその理由が解った。それは私ではなくてリスだった。シジュウカラの群はそれを追つてここまで遣つて来たのである。いま一匹のリスが転げるように赤松の幹を下りて来て私の眼前一〇メートルばかりの地上ヘピョンと立った。短かい前足を胸のところまで上げ、房々した平たい長い尾を背中へ曲げて、大きな黒い眼をくりくりさせた灰褐色のリスである。
 私はこの森に少くとも三頭か四頭のリスの棲んでいることを知っている。よく彼らが赤松のてっぺんからてっぺんへと渡り歩いて未熟な縁の毬果を食いちらしては、そのかけらや食いあましを下の地面へ落とすのを見かけるし、森のふちの土手の日当りで遊んでいるのを目撃したことも幾度かある。ある時などは偶然出あいがしらにぶつかって人間とリスの雙方がびっくりし、お互いにち太っと気まずい思いをしたこともあった。その時リスは真白な腹を翻してくるりと樹の幹の反対側へ身を匿し、「居ない居ないバア」のように時々顔だけ出して私の様子をうかがった。尖った耳をぴんとつっ立て、長い髭のはえた鼻面をひくひく動かしながら、可愛いつぶらな眼をみはってまじまじと自分を見ているこのリスという小動物に、私はほとんど人間同士のような感情を、いやもっと正しくいえば人間の子供に対するような愛情を抱かざるを得なかった。
 いま高原の秋もたけなわのもみじの森で、自分を囲んで烈しく叫び合ったり矢のように飛び違ったりするシジュウカラの群の真中へまるごと姿を現した前記のリスは、しかし見たところ頗る平気で、心臓を躍らせたり息を弾ませたりしている様子もなく、また自分に対する小さい鳥たちの興奮をかくべつ恐れてもいなければ大して迷惑がってもいないようだった。むしろこんな子供らしい捕物遊びをまたしても彼らが欲するならば、同じ森に棲む仲間として少しは相手になってやってもいい。こう見えてもこっちは立派な大人だから、少しぐらい乱暴をされても何もむきになったり怒ったりはしないのだと言っているように思われた。そう思って見ると、一方シジュウカラの方も実戦さながらに勢だけは猛烈だが、べつだん相手を本物の敵と見なしている訳でもなく、ただ精いっぱい翼を鳴らし声を振りしぼって有りあまるエネルギーをこの荒っぽい遊戯に集中発散して、逃げ廻る隣人を追い立てることに一種のスリルを味わっているとしか考えられなかった。
 こういう見方や考え方は、あるいは観察者自身の安易な人間臭い主観として斥けられるかも知れないが、この場合余裕のある寛大なリスの態度といい、華々しく攻め立てはしても遂に殺意を感じさせないシジュウカラの動作といい、そこにはどう見ても真の決闘を語るものが欠けていた。私はその三日ばかり前に、この同じ森に棲む一羽のチゴハヤブサが釜無の谷から遣って来た十羽のハシボソガラスに立向って、これに猛烈な攻撃をかけている実況を目撃した。ガアガアと騒がしく鳴きたてながら狡猾に逃げ廻っては執拗な蠅のようにまた戻って来る鴉の群を追跡して、上空から風を切って飛びかかりざま敵の頭や肩を蹴るこの小型の鷹の果敢な攻撃には、まぎれもない必殺の意思が現れていた。そしてその空中での烈しい追撃戦のあいだに時々まっくろな大きな羽毛が秋の青空を舞ながら落ち、やがて十羽の鴉は追撃されて向うの谷間へ飛び去ったのであった。
 しかし鴉に対するチゴハヤブサのこの憎悪や必死の攻撃を、私は今このリスに対するシジュウカラには遂に見ることも感じることもできなかった。それは確かに冒険的なスリルヘの要求に過ぎず、相手に実害を与えない程度の攻撃であって、つまり一種の戦闘遊戯に外ならないもののように思われたのである。そして事実リスの体からは一筋の毛も散らず一滴の血もこぼれず、またシジュウカラの間から一羽の負傷者も出なかった。そしてやがて好人物のリスが姿を隠し、優しいエナガの群を随えてシジュウカラの一隊が意気揚々と引きあげるのを見送りながら、美しい小鳥と小さい獣とによって演ぜられたこの日没時のひときわ絢爛な秋の林の一場の自然劇を、私は近頃での最上の収穫として心も豊かにほのぐらい小径を我が家の方へと歩み返したのであった。