なかなかなかね野鳥と自然の写真館

疾風怒涛の時代が過ぎ去っていきます。私たちがその中で、ふと佇む時、一時の静寂と映像が欲しくなります。微妙な四季の移ろいが、春や秋の渡りの鳥たちや、路傍の名もない草花にも感じられます。このブログは、野鳥や蝶、花や野草、四季の風景などの写真を掲載しています。

高野山・奥の院参道

「高野のやまの 岩かげに
       大師は 今もおわしますなり」
             (清少納言 「枕草子」)


3月21日(本当は旧暦の3月21日なのですが)は弘法大師空海の命日なのでとても多くの人が参拝していました。

高野山奥の院は、現在も「お大師さんは生きている」との信仰の霊場(れいじょう)なのです。

今でも朝、お大師さんの食べる食事(生身供しょうじんぐ)を毎朝お届けする行事があります。

弘法大師空海の死は入滅(にゅうめつ)ではなく入定(にゅうじょう)といわれ、生きたまま仏(ほとけ)となって永遠に生き続けているものと考えられているのです。

この信仰は10世紀後半には成立していたとされ、それらを推測させる史料に「修行縁起」があります。

金剛峯寺建立修業縁記(こんごうぶじこんりゅうしゅぎょうえんぎ)に云(いわ)く、「吾(われ)入定の間 知足天(兜率天とそつてん)に往いて慈尊(じそん弥勒菩薩みろくぼさつ)御前に参仕すること五十六億七千余歳の後・慈尊(じそん)下生(げしょう)の時必ず随従(ずいじゅう)して吾が旧跡(きゅうせき)を見る可し此の峯等閑にすること勿(なか)れ」と

この奥の院に通づる参道(2.6キロ)の周辺にはあまたの墓碑が林立していて冥府(めいふ)を思わせる佇まいです。ここには戦国武将など多くの墓があります。

この宗派を問わない墓碑建立願望の現象は、空海の入定信仰と56億7千万年に救済に示現する弥勒信仰(みろくしんこう)との合体(がったい)による「死後の安寧」を求めるものからきているのかもしれません。

有名武将の一例をあげれば、上杉謙信武田信玄織田信長柴田勝家、前田家、明智光秀豊臣秀吉伊達政宗石田三成、毛利家大きな五輪塔10基、真田家9基の五輪塔、島津家、井伊直弼霊廟など大名家の墓だけで百十を数え、庶民の墓も数えれば数十万以上あると言われており、高野山は「日本の総菩提寺(そうぼだいじ)」といわれる所以(ゆえん)となっています。

最近の3.11の「関東大震災物故者慰霊碑」もありました。(最後の写真)

また、参道の墓とは無関係ですが、歴史的にみてみると、高野山は豊臣家と徳川家の2家が大きな庇護を与えており、その遺構も今に残されているようです。

最初、豊臣秀吉は、高野山に対し「敵」とみなしていたようです。

彼が徳川家康と戦った「小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)」で、高野山徳川家康に味方して、あろうことか鉄砲五百丁を送っていたからです。

そこで、秀吉は、天下統一のため高野山に対し、寺領以外の没収と寺僧の武装解除の「無条件降伏」を要求し、この無条件降伏を受け入れれば、高野山の安全は保証し、二世の願所(がんしょ)として永代にわたって保護することを約束したとのことです。

この時没収された隠し寺領は五万石と言われています。最初に認められた高野山の寺領は一万石でしたが、後に加増され二万石になりました。

実は、現在の金剛峯寺(こんごうぶじ)の前身は、秀吉の生母、大政所(おおまんどころ)の菩提所(ぼだいしょ)として建てられた青巖寺なのです。この寺は壮大なものだったそうです。

秀吉は、高野山の復興に湯水のごとく金銀を使い、この寺以外にも根本大塔の修復と金堂の再建も行い、山内には二十五棟の堂舎が建立されたそうです。

そもそも金剛峯寺は、高野山一山の総称だったのですが、明治時代になって宗制改正のとき全山を代表する寺として、構えの立派な青巖寺が代表に選ばれて、現在も総本山となっているのです。(今の建物は幕末の建造物です)

また、徳川家は家康以前の松平家から高野山の檀家(だんか)だったとのことで、徳川時代には高野山を保護することが幕府の基本方針となって寺領2万一千石が認められていたようです。

江戸時代では一万石以上が大名なので高野山は大名格の寺領を保証されていたわけです。

また、三代将軍家光が建立した家康・秀忠を祀(まつ)る壮麗な徳川家霊台(とくがわけれいだい)が高野山内にあるようです。

二代将軍秀忠の妻の「お江の方(おごうのかた)」は高野山の信仰が厚く、奥の院参道のすべての墓碑の中で最大の石塔、崇源院(すうげんいん)殿墓塔があるとのことです。

弘法大師御廟のある御廟橋以降は、奥の院であり、撮影禁止のエリアです。
この霊場は、極めて荘厳で、それまでの世界とは全く異なる空間がありました。

もし、ここで撮影出来たとしてもその雰囲気は、とても映像では表現できないと思われます。

したがって奥の院に続く道を正面から撮影したかったのですが、命日のこの日は、奥の院に続く道は、人の群れが長く続き、写真撮影すると、どうしても人が写ってしまい、肖像権が犯されるため撮影できません。

そのため、人気のいない場所を選んで撮影せざるをえませんでした。




後夜(ごや)に仏法僧鳥(ぶっぽうそうちょう)を聞く  
                     (空海  「性霊集」)

 

閑林(かんりん) 独座(どくざ)す 草堂(そうどう)の暁(あかつき)

三宝(さんぽう)の声 一鳥(いっちょう)に聞く

一鳥 声有り 人 心有り

声心(せいしん) 雲水(うんすい) 倶(とも)に 了々(りょうりょう)


(意訳)

高野山のひっそり静まった草堂の夜明けにひとりで座っていると

どこからか「仏法僧」と鳴く木葉木菟(このはずく)の鳴声が聞こえてきます。

鳥はただ仏法僧と鳴くだけですが、自分がそれを聞くと思わず心に感じ悟るものがありました

鳥の声 人の心 大空の雲 流れる水 まったく一つに融け合い ともに悟りの境界です。

 


オリンパス ミラーレス一眼 OM−E E−M1(パワーバッテリー・ホルダー HLD−7付).ズーム・レンズ  OLYMPUS M Zuiko D 14-42 F3.5-5.6 ii MSCMで撮影。.