3月になって我孫子市のあちこちでウグイスの囀りが聞こえますが、声だけでなかなか姿を見せてくれません。
3月25日、手賀沼遊歩道を歩いていると、あちこちでウグイスのさえずりが聞こえてきました。
遊歩道の桜もほんの少しだけ開花しています。
この僅かに咲いた桜の木の近くでもウグイスの囀りが聞こえています。
ここのウグイスの囀りは、すばらしく「ホーホケキョ」とはっきり聞こえ続く「ケキョケキョ」も見事なものです。
鳴き声がだんだん大きくなってきたので、耳をすましていると、囀りがどんどん近づいてきます。
なんと!僅かに咲いた桜の木の近くの梢で囀りはじめました。
そよ吹く風は冷たく花冷えの手賀沼遊歩道ですが、季節はめぐって春告げ鳥、鶯の本格的な囀りも聞こえるようになりました。
もうすく本格的なお花見の季節です。
「鶯の 啼(なく)やちいさき 口明(あ)けて」 (与謝蕪村)
この俳句は、萩原朔太郎の詩人らしい鑑賞の文章があるので「青空文庫」より一部分を引用させていただきます。
単純な印象を捉とらえた、純写生的の句のように思われる。しかし鶯という可憐な小鳥が、真紅しんくの小さな口を開けて、春光の下に力一杯鳴いてる姿を考えれば、何なんらかそこにいじらしい、可憐かれんな、情緒的の想念が感じられる。多分作者は、こうした動物の印象からして、その昔死別れた彼の幼ない可憐な妹(蕪村にそうした妹があったかどうか、実の伝記としては不明であるが)もしくは昔の小さな恋人を追懐して、思慕と恋愛との交錯した情緒を感じ、悲痛な咏嘆えいたんをしたのであろう。