なかなかなかね野鳥と自然の写真館

疾風怒涛の時代が過ぎ去っていきます。私たちがその中で、ふと佇む時、一時の静寂と映像が欲しくなります。微妙な四季の移ろいが、春や秋の渡りの鳥たちや、路傍の名もない草花にも感じられます。このブログは、野鳥や蝶、花や野草、四季の風景などの写真を掲載しています。

春の野を悠然と飛翔するノスリと川辺のアオジ

春の野は桜が咲き誇って、その花びらは風に吹かれて漂い,花びらの束は地上につもっています。

畑の畦道にはタンポポがあちこちで咲き乱れて春を謳歌しています。


「世の中に たえて桜の なかりせば
             春の心は のどけからまし」
           (在原業平

意訳:この世の中に、桜というものがなかったら、春をのどかな気持ちで過ごせるだろうに


この歌は、鷹狩り(たかがり)が天皇や貴族の特権だった時代に「鷹狩りの名手」と言われた在原業平(ありはらなりひら)が鷹狩りの後で詠んだ歌です。(伊勢物語八十二段)



参考 伊勢物語八十二段 原文

昔、惟喬親王(これたかのみこ)と申す親王おはしましけり。
山崎のあなたに、水無瀬(みなせ)といふ所に宮ありけり。
年ごとの桜の盛りには、その宮へなむおはしましける。
その時、右馬頭(みぎのうまのかみ)なりける人を、
常に率(ゐ)ておはしましけり。
時世経て久しくなりにければ、その人の名を忘れにけり。
狩りはねむごろにもせで、酒をのみ飲みつつ、
やまと歌にかかれりけり。
いま狩りする交野(かたの)の渚(なぎさ)の家、
その院の桜ことにおもしろし。
その木のもとにおりゐて、枝を折りてかざしにさして、
上中下(かみなかしも)みな歌よみけり。
馬頭なりける人のよめる、

世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

となむよみたりける。また人の歌、

散ればこそいとど桜はめでたけれうき世になにか久しかるべき

とて、その木のもとは立ちて帰るに、日暮れになりぬ。

意訳
昔、惟喬親王とおっしゃる親王がおられました。
山崎の向こうの水無瀬という所に、彼の離宮がありました。
毎年、桜の花盛りのころにその離宮にお出かけになりました。
その際には右馬頭であった人をいつも連れていらっしゃっいました。
時を経て、もうだいぶ昔になってしまったので、その人の名を忘れてしまいました。
親王のご一行は鷹狩りをあまり熱心にしないで、ただ酒ばかりを飲んで、
和歌を詠むことに夢中になっていたものです。
今、狩りをする交野の渚の家、その院の桜がことに趣深いのです。
一行はその木の下に馬から下りて座り、枝を折って飾りとして髪に挿し、
身分の上下にかかわりなく皆で歌を詠みました。
馬頭だった人(在原業平)が詠んだ歌、

「この世の中に、桜というものがなかったら、春をのどかな気持ちで過ごせるだろうに」
と詠みました。

また別の人は、

「 散るからこそ、いっそう桜はすばらしい。辛いこの世で何が永遠であろうか」

と詠んで、その木の下から立ち上がって帰ろうとしたら、もう辺りは日暮れになっていました。


そんなことを考えていると、彼方の空に一羽の鷹が姿を現しました。

悠然と飛んでいるその鷹はノスリです。ノスリでなくオオタカなどであれば歌の詠んだ場所のイメージにぴったりですが、やむを得ません。(さっきまで電柱にオオタカがとまっていたのに・・・)

そんなこととは無関係に、ノスリは、どんどんこちらに近づいてきます。

このノスリは、損傷している風切り羽をものともしないで、下をしっかり見つめて獲物を探しています。

人を恐れる様子もまったく見せずに私の頭上を舞っています。

獲物を見つけ出すことができないようで、ゆっくりと飛び去っていきました。

その後すぐに川辺の枝にまだ北に帰らないアオジがひょっこりと芽吹いている枝にとまりました。

のどがな春の畑のどこでも見られる鳥たちです。


満開の桜ソメイヨシノと積もる花びら


野辺に咲くタンポポ

上空に現れたノスリ














川辺の新芽の枝にとまるアオジ

さっきまで電柱にとまっていたオオタカ