なかなかなかね野鳥と自然の写真館

疾風怒涛の時代が過ぎ去っていきます。私たちがその中で、ふと佇む時、一時の静寂と映像が欲しくなります。微妙な四季の移ろいが、春や秋の渡りの鳥たちや、路傍の名もない草花にも感じられます。このブログは、野鳥や蝶、花や野草、四季の風景などの写真を掲載しています。

手賀沼湖畔で寝るマガモたち

f:id:digibirds:20210204185435j:image
f:id:digibirds:20210204185653j:image

上の写真は、一眼レフキヤノンEOS7DマークⅡにCANON EF200mm F2.8L USMを装着し手持ち撮影しました。

2月3日午後手賀沼湖畔は、晴れ。

マガモたちは、暖かな光の中で昼寝をしていました。

オオハクチョウオオバンもこの隣りで遊んでいます。

皆、仲良くうちとけているようです。

 

喫茶去

悟り(さとり)とは何か

 

道元禅師(どうけんぜんじ)は、

中国の宋の如浄禅師(にょじょうぜんじ)のもとで修行した際に悟りを得たようです。

 

道元禅師は、その著作「正法眼蔵しょうぼうげんぞう」の「現成公案げんじょうこうあん」の巻で、以下のようなことを言っています。

 

実は、「現成公案」の卷は、いわば『正法眼蔵』の総論であると同時にエキスでもあると、古来から言われています。

 

「現成公案」の巻には道元禅師の基本的考え方がすべて網羅されているから、

それが分かれば、『正法眼蔵』に通底している道元禅の要所を掴むことができると考えられています。

 

そこで、以下にその巻の冒頭を検討してみることにします。

 

原文

 仏道をならふといふは、自己をならふなり。
 自己をならふというは、自己をわするるなり。
 自己をわするるといふは、萬法に証せらるるなり。
 萬法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

 

意訳


仏道修行は「自分とは何者か」を明らかにすること(己事究明)なのです。


それは自我意識を没却することで、
元来「主客一元」であること(梵我一如)を悟ることです。


悟ることとは自我意識も他者としての自分も解体させることです。

 

道元禅師が説く本当の「自己」とは、自分であると思っているものから肉体(身)と精神(心)を取り除いたあとに残るもの、ということになります。

 

自分から肉体と精神という実体を取り除けば何も残らない、と考えるのが一般の感覚ですが、それは 思考することによって主客二元の世界を作り出し、自分という実体があると錯覚しているからにほかなりません。

 

仏道修行により自分を究明し、それが錯覚であることに気付いて我執から解き放たれれば、そこに森羅万象と自分とは何の違いもない(梵我一如)、 「天上天下唯我独尊」 の世界が開かれるのであって、その状態を道元禅師は「悟り」といっているようです。

身心脱落(しんじんだつらく)が悟りであり、座禅により得られる境地のようです。

座禅をしない私は、感得できない境地かもしれません。