なかなかなかね野鳥と自然の写真館

疾風怒涛の時代が過ぎ去っていきます。私たちがその中で、ふと佇む時、一時の静寂と映像が欲しくなります。微妙な四季の移ろいが、春や秋の渡りの鳥たちや、路傍の名もない草花にも感じられます。このブログは、野鳥や蝶、花や野草、四季の風景などの写真を掲載しています。

鮮やかなコガモ

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上の写真は、一眼レフキヤノンEOS7DマークⅡにCANON EF200mm F2.8L USMを装着し手持ち撮影しました。

2月6日坂田が池のコガモが鮮やかに色づいて、とても綺麗でした。

マガモの全長が59cmに対して、コガモの全長は37.5cmと、3分の2の大きさです。日本のカモ類では最小のようです。

 

雄は背が灰色がかった色で、顔は茶色、目の後方が緑色。雌は全体に淡褐色
冬鳥として各地の池沼に渡来しますが、北日本では繁殖するものもあるとのことです。

小さいけれどオスの美しさは格別です。

 

カモには、主として川や沼などの淡水に渡ってくるものと、湾岸地帯に来る塩水を好むものに分かれますが、このコガモは淡水系で、池、川、湖に着水します。

 

コガモは、人の与える餌に容易に近づいてくるオナガガモヒドリガモ等と異なり、孤高を保つかのように、ヒトの側に近寄ることはないようです。

 

また、最も早い時期に飛来し(10月)、最も遅くまで(6月)残っているのもこのコガモの特徴といえるでしょう。

 

喫茶去

生死(しょうじ)とは何か

 

私達は、年老いて来ると死ぬことが気になり始めます。

 

そこで

道元禅師の「生死の教え」を見てみます。

 

道元禅師は、正法眼蔵の中で


「生より死にうつると

 心うるは、

 これあやまり也。

 生は、ひと時のくらいにて、
 すでにさきあり、のちあり。」


生と死は、分けて考えてはいけません。その事実を事実として徹底的に受け入れることです。

生きていると言うことは、死と比べて生きているといことではなくて、そこには、絶対的な今しかありません。

 

死を迎える心とは、


「生きたらばただこれ生、

滅来たらば 

これ滅にむかいてつかうべし。


いとうことなかれ、ねがことなかれ」


私達は、既に、生と死の中にいます。それであれば、いまさら、死や死後の成仏を願うこともありません。生の中にいて、生以外のものを願うことはできないし、死の中にいて死以外のこともありえないのです。

つまり、生死は、ワンセットなのです。

生と死とは表と裏の関係で産まれた時に生は死とともにあります。

ですから、時間の経過で生から死に至るのではありません。

産まれてからは、私達は、不生不滅て二度と生まれたり死んだりすることは、ありません。

生は、生で完結し、死は死で完結しています。

機により生の表から裏の死になるだけです。

何も恐れることは、ありません。

 

焚き木の灰は時間経過で灰になるのではなく、焚き木は、焚き木で完結し、灰は、灰で完結しています。灰から焚き木に戻れないのです。(前後際断せり)

 

生死も同じことです。

 

 

喫茶去

カーゾン クナッパーツブッシュ

の皇帝を聴く

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ベートーヴェン:ピアノ協奏曲 第5番 変ホ長調 作品73《皇帝》

サー・クリフォード・カーゾン(ピアノ)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:ハンス・クナッパーツブッシュ

グリーグ:ピアノ協奏曲 イ短調 作品16

サー・クリフォード・カーゾン(ピアノ)
ロンドン交響楽団
指揮:エイヴィン・フィエルスタート

録音:1957年6月 ウィーン、1959年6月 ロンドン
《デッカ・オリジナル・リマスタリング

イギリスが生んだ20世紀の名ピアニスト、カーゾンの端正な造型感覚と品格ある演奏を聴くアルバム。《皇帝》は悠揚迫らぬクナッパーツブッシュが指揮する、重厚で芯のしっかりしたウィーン・フィルハーモニーのサウンドも聴きもので、これはデッカのステレオLP第1回新譜の1枚となった記念すべき録音にあたります。(ユニバーサルクラシックス

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内容詳細
《ユニバーサル クラシックス ヴィンテージ・コレクション》からの1枚。「皇帝」は、デッカのステレオLP第1回新譜の1枚だった。イギリスを代表する名ピアニスト、カーゾンとクナの重厚な演奏。(CDジャーナル データベースより)

 

皇帝はクナッパーツブッシュとの豪快な演奏でとても気にいっています。

カーゾンは、重厚でしっとりとした繊細な気品のある素晴らしい演奏です。

カーゾングリーグも豪快な快演です。