なかなかなかね野鳥と自然の写真館

疾風怒涛の時代が過ぎ去っていきます。私たちがその中で、ふと佇む時、一時の静寂と映像が欲しくなります。微妙な四季の移ろいが、春や秋の渡りの鳥たちや、路傍の名もない草花にも感じられます。このブログは、野鳥や蝶、花や野草、四季の風景などの写真を掲載しています。

ヒガンバナ

あちこちでヒガンバナが咲いています。今年の猛暑の影響でヒガンバナの開花が少し遅いようです。ヒガンバナは、曼珠沙華(まんじゅしゃげ)とも呼ばれていて、例年は、お彼岸のころ見事のはなをさかせるのですが・・・
曼珠沙華は、サンスクリット語で天界に咲く花という意味で サンスクリット語ではmanjusaka(まんじゅしゃか)というそうです。
この花は、両極端の思われ方をして歌に詠まれているようです。
近年は、鮮やかな花で「赤い花・天上の花」の意味で、めでたい兆しとされるように思われがちなのですが、一方、死人花(しびとばな)、地獄花(じごくばな)、幽霊花(ゆうれいばな)、剃刀花(かみそりばな)、狐花(きつねばな)、捨子花(すてごばな)など、不吉であると忌み嫌われることもあるそうです。
私は、火のような情熱を示す、赤い華麗な花のままでいいような気がしています。

「秋のかぜ吹きてゐたれば遠かたの薄のなかに曼珠沙華赤し」   ( 斎藤茂吉 )

曼珠沙華 蘭(らん)に類(たぐ)いて狐(きつね)鳴く」   ( 与謝蕪村 )

閑話休題
今日から10月です。10月の古名は、神無月(かんなづき)です。この月になると思いだす詩が、薄田泣菫(すすきだきゅうきん)の詩集『白羊宮』(はくようきゅう)の中の「ああ大和にしあらましかば」です。少し長いですが以下に記載します。秋の夜長に古文の鑑賞は如何(いかが)でしょうか?


   ああ大和にしあらましかば

ああ、大和(やまと)にしあらましかば、
いま神無月(かみなづき)、
うは葉散り透く神無備(かみなび)の森の小路を、
あかつき露(づゆ)に髪ぬれて往(ゆ)きこそかよへ、
斑鳩(いかるが)へ。平群(へぐり)のおほ野、高草の
黄金(こがね)の海とゆらゆる日、
塵居(ちりゐ)の窓のうは白(じら)み、日ざしの淡(あは)に、
いにし代(よ)の珍(うづ)の御経(みきやう)の黄金文字(こがねもじ)、
百済緒琴(くだらをごと)に、斎(いは)ひ瓮(べ)に、彩画(だみゑ)の壁に
見ぞ恍(ほ)くる柱がくれのたたずまひ、
常花(とこばな)かざす藝の宮、斎殿深(いみどのふか)に、
焚(た)きくゆる香(か)ぞ、さながらの八塩折(やしほをり)
美酒(うまき)の甕(みか)のまよはしに、
さこそは酔(ゑ)はめ。

新墾路(にひばりみち)の切畑(きりばた)に、
赤ら橘葉が<れに、ほのめく日なか、
そことも知らぬ静歌(しづうた)の美(うま)し音色に、
目移しの、ふとこそ見まし、黄鶲(きびたき)の
あり樹の枝に、矮人(ちひさご)の楽人(あそびを)めきし
戯(ざ)ればみを。尾羽身(をばみ)がろさのともすれば、
葉の漂(たゞよ)ひとひるがへり、
籬(ませ)に、木(こ)の間に、──これやまた、野の法子児(ほふしご)の
化(け)のものか、夕寺深(ゆふでらふか)に声(こわ)ぶりの、
読経(どきやう)や、──今か、静(しづ)こころ
そぞろありきの在り人(びと)の
魂にしも沁(し)み入(い)らめ。

日は木(こ)がくれて、諸(もろ)とびら
ゆるにきしめく夢殿の夕庭寒(さむ)に、
そそ走(ばし)りゆく乾反葉(ひそりば)の
白膠木(ぬるで)、榎(え)、楝(あふち)、名こそあれ、葉広(はびろ)菩提樹
ゆきのさざめき、諳(そら)に聞きほくる
石廻廊(いしわたどの)のたたずまひ、振りさけ見れば、
高塔(あららぎ)や、九輪(くりん)の錆(さび)に入日かげ、
花に照り添ふ夕ながめ、
さながら、緇衣(しえ)の裾ながに地に曳きはへし、
そのかみの学生(がくしやう)めきし浮歩(うけあゆ)み、──
ああ大和にしあらましかば、
今日(けふ)神無月(かみなづき)、日のゆふべ、
聖(ひじり)ごころの暫(しば)しをも、
知らましを、身に。