なかなかなかね野鳥と自然の写真館

疾風怒涛の時代が過ぎ去っていきます。私たちがその中で、ふと佇む時、一時の静寂と映像が欲しくなります。微妙な四季の移ろいが、春や秋の渡りの鳥たちや、路傍の名もない草花にも感じられます。このブログは、野鳥や蝶、花や野草、四季の風景などの写真を掲載しています。

藤の花

藤棚にたれ下っている、藤の花の房の成長が、この寒さで遅れているようです。写真に撮れそうな、よく咲いてる房は、ほとんどありません。やっと捜しても鮮やかな紫(むらさき)色ではなく、やや薄い感じです。5月ころ満開になるのでしょうか?

この写真は、手賀沼遊歩道に隣接する藤棚で、かろうじて咲いている花を、みつけて撮りました。房の下はまだ花がついていませんので上だけ撮影しました。




閑話休題ー紫色雑感と「助六寿司」

紫(むらさき)色は、古来(こらい)より、貴重で高貴なものにしか、使用が許されていませんでした。

例えば中国の漢の時代には、印綬(いんじゅ)の制度がありました。

内臣の場合の諸侯や王は、金璽綟綬(きんじれいじゅ)が授(さず)けられますが、外臣で王号を持つ者は、金印紫綬(きんいんしじゅ)となります。
したがって、日本の志賀島(しがのしま)で発見された漢委奴国王印(かんのわのなのこくおうのいん)は、金印紫綬のはずですし、まだ見つかっていないのですが、倭(わ)の女王、卑弥呼(ひみこ)が授けられた「親魏倭王」印(しんぎわおういん)も金印紫綬のようです。

また、聖徳太子の時代には、冠位十二階(かんいじゅうにかい)で、紫は、最上位、大徳(たいとく)の冠の色とされていました。遣隋使(けんずいし)の大役を果たした小野妹子(おののいもこ)などが、下賜(かし)されています。

平安時代になっても、文学作品の中に、紫がよく出てきます。その事例を2つあげてみます。

ひとつは、清少納言(せいしょうなごん)の「枕草子(まくらのそうし)」の出だしの部分です。

「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際(やまぎわ)、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。」

もう一つは、紫式部(むらさきしきぶ)の「源氏物語(げんじものがたり)」の中の「若紫(わかむらさき)」の巻です。

若紫は、山で光源氏(ひかるげんじ)と出会い、連(つ)れ去られてしまいます。ちなみに若紫とは「紫の上」の幼名です。そして子供の頃から源氏の思い通りの女性に育てられ、「葵(あおい)の上」の死後、源氏と結婚する物語が描かれています。

平安貴族も紫色をかなり意識していたことがわかります。

また、お坊さんの身に着ける袈裟(けさ)でも最高ランクの色は、紫です。 これは、 中国唐代の則天武后(そくてんぶこう)が、法朗(ほうろう)ら9人に紫衣(しえ)を下賜(かし)したのが最初といわれています。日本でも、その制度が取り入れられています。

以下に、鎌倉時代の紫衣のエピソードを書いてみます。

道元禅師(どうげんぜんじ)は、御嵯峨院(ごさがいん)より「紫衣」を賜(たまわ)りました。何度も辞退(こじ)したのですが、断り切れずに、三度目に「紫衣」を賜ったそうです。でも、道元禅師は、紫衣を一生身にまとわず、次の偈(げ)を作って上謝(じょうしゃ)されたといわれます。

  永平谷浅しと雖(いえど)も、
  勅命(ちょくめい)重きこと重重(じゅうじゅう)
  却(かえ)って猿鶴(えんかく)に笑われん
  紫衣の一老翁(しえのいちろうおう)

その大意は、は「この永平寺の山は浅く、浅学な私が、重き勅命によって紫衣を賜りましたが、権威や、虚飾を象徴している「紫衣」を私が身にまとったら、無心に生きている猿や、鶴に笑われてしまいます。」

彼の恩師の宋の国の如浄禅師(にょじょうぜんじ)も、下賜された紫衣を一生身につけることがなかったといわれています。当時、如浄禅師は、名利(みょうり)を超越した高僧として有名でした。道元禅師もそれを見倣(なら)ったことでしょう。
  
江戸時代になりますと、紫色は、高貴の色としてではなく、江戸の粋(いき)を表す色でもあったようです。
 
その色は、江戸紫(えどむらさき)といわれる色です。

この色は、歌舞伎宗家(かぶきそうけ)の市川團十郎家(いちかわだんじゅうろうけ)のお家芸助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」の中にでてきます。

主人公の「花川戸(はなかわど)の助六(すけろく)」がしている鉢巻(はちまき)の色が、江戸紫です。この芝居が大当りして以降、真似(まね)をして巻く者が現れたそうです。

今日でも、この芝居は、歌舞伎十八番の中では唯一の世話物(せわもの)でゴージャスな舞台のため、上演すれば必ず大入りになるという人気演目なのです。

蛇足ですが、「助六寿司(すけろくずし)」の名前の由来は、この歌舞伎の助六の愛人の花魁(おいらん)「揚巻(あげまき)」の名前からきています。今までは、ぜいたく品だった砂糖(さとう)が、江戸時代にようやく庶民に普及して、油揚(あぶらあ)げを甘辛(あまから)に味付けした稲荷ずしが、「江戸の粋」な食べ物となって、その「揚げ」と「巻物」のセットを花魁揚巻にかけて「助六寿司」というようになったそうです。

先日、テレビで紹介されていたのですが、都営浅草線押上駅徒歩3分程の、創業40年を超す、「いなり寿司とのり巻きの専門店「味吟」」さんが、「スカイツリー見学のついでに行くといいお店」だそうです。私も食べていないので、今後、スカイツリーに行くことがあれば、立ち寄ってみたいと思っています。

今日も寒いので、あんまり、いろんなことは気にしないで、ユニクロで買った紫色のタートルネックのセーターに着替えてみよっと!