なかなかなかね野鳥と自然の写真館

疾風怒涛の時代が過ぎ去っていきます。私たちがその中で、ふと佇む時、一時の静寂と映像が欲しくなります。微妙な四季の移ろいが、春や秋の渡りの鳥たちや、路傍の名もない草花にも感じられます。このブログは、野鳥や蝶、花や野草、四季の風景などの写真を掲載しています。

雑木林のジョウビタキ

冬晴れの雑木林にジョウビタキのオスがいました。低木の茂みから、時々姿を現しますが、こちらを警戒しているのか、すぐに、引っ込んでしまいます。
茂みの中からこちらを見ているようです。やっと1枚撮影できました。



「鶲(ひたき)来て 色つくりたる 枯れ木かな」 
               原 石鼎(はら せきてい)





閑話休題鹿島神宮香取神宮兵法三大源流



江戸時代以前に、神宮の名称を使用していたのは、「伊勢神宮」、「鹿島神宮」、「香取神宮」の三社だけだそうです。

実は、鹿島神宮香取神宮ともに創建は古くて記録ははっきりしませんが、鹿島神宮神武天皇元年の紀元前660年の創建とされ、香取神宮神武天皇18年(紀元前643年)と伝えられています。これは、伊勢神宮垂仁天皇26年(紀元前4年)(内宮)とされており、これより600年以上前のことです。

さて、鹿島神宮祭神の武甕槌神(たけみかづちのかみ)と香取神宮の祭神(経津主神(ふつぬしのかみ)は、国譲りの神話で、ともに天孫降臨に先立って国土を平定したとされる武神です。

その為、今日でも武道に携わる人々から崇敬されています。

剣道の道場には「鹿島大明神」「香取大明神」と書かれた二軸の掛軸が対になって掲げられていることが多いのですが、その理由は、鹿島神宮主祭神である武甕槌神が、香取神宮に祀(まつ)られている経津主神と共に武神とされているからです。
 
さて、現存する剣術流派の起源をたどっていくと、鹿島の太刀かまたは京八流に行き着くといわれています。

鹿島の太刀は、仁徳天皇の時代(四世紀頃)、国摩眞人(くになず の まびと)なる人物が鹿島神宮に祈りをこめて、神妙剣の術を授かったそうです。

これが、後に「鹿島の太刀」と呼称され、日本剣術の源流となったと伝承されています。

この伝承は、七人の神官によってなされたため、「関東七流(鹿島七流)」と呼ばれるようになったという話もあります。

また、古くから鹿島神宮に代々伝承されていたとされ、九州につく防人(さきもり)達の為に伝授された、とも伝えられています。

京八流の伝承では、平安時代末期、鬼一法眼(きいちほうげん)が鞍馬寺で八人の僧に剣術を伝えたといわれ、後に弟子である八人の僧が伝えた剣術を京八流と称するようになったといわれており、中条流や鞍馬流は、この京八流を源流としているそうです。

室町時代までの剣術の流派の歴史は、おぼろげな伝承しかありませんが、この頃から剣術の流派の体系がかなり明瞭になってきます。

1541年頃「新陰流」を創始した上泉伊勢守藤原秀綱(かみいずみいせのかみ ふじわらひでつな)が、永禄9年(1566年)に柳生宗厳へ与えた「影目録」の中で、特に後世に多大な影響を与えた三流派を示しているそうです。
この三流派を兵法三大源流(ひょうほうさんだいげんりゅう、「兵法」は「へいほう」とも)いわれ、念流(ねんりゅう)、神道流(しんとうりゅう)、陰流(かげりゅう)の3つの剣術流儀を指す総称となっています。

念流 は、念阿弥慈恩(ねんあみ じおん、ねんなみ じおん)(相馬四郎義元)を流祖としています。念阿弥は、敵討ちを目指して剣の修行をし、父の敵を討ち、その後諸国を回って広めたのが念流とのことです。

念流の系譜で現在まで続いている流派には馬庭念流(まにわねんりゅう)があります。この流儀はその名の通り、上州馬庭の地に代々伝えられた剣術です。

また、兵法三大源流における「神道流」は、下総国(千葉県)香取の飯篠長威斎(いいざさちよういさい)(1387?‐1488)を祖とする剣術流派で、正式には天真正伝香取神道流(てんしんしょうでんかとりしんとうりゅう)というそうです。

神道流は日本の剣道史上,流派として最も古いもので,鹿島,香取両神宮にゆかりの深い伝統ある武術です。

神道流は軍法,剣術,なぎなた,槍,居合などを含む総合武術のようです。この流派は、現代にも伝わっていて、1960年、千葉県の無形文化財に指定されています。

この伝系には,諸岡一羽(もろおかいちう)の一羽流,塚原卜伝(ぼくでん)の新当流,有馬大和守乾信の有馬流などがあるそうです。

有名な塚原 卜伝(つかはら ぼくでん)は、日本の戦国時代の剣豪で、父祖伝来の鹿島古流(鹿島中古流)に加え、天真正伝香取神道流を修めて、鹿島新当流を開いたといわれています。


兵法三大源流における「陰流」は 、伊勢国(現在の三重県)の守護の愛洲日向守移行斎(あいすひゅうがのかみいこうさい)が、1487年に創始した流派です。

流祖の愛洲移香斎は、鵜戸神宮に参篭し、蜘蛛の霊夢によって剣術の極意を悟ったと伝えられています。

上泉伊勢守藤原秀綱(かみいずみいせのかみ ふじわらひでつな)は、愛洲日向守移行斎について「陰流」の奥義を極め、陰流第二世となり「転(まろばし)」という道を奥旨工夫発明し、1541年頃「新陰流」を創始して流祖となりました。

その後上泉伊勢守は、1565年に柳生石舟斎宗厳(やぎゅう せきしゅうさい むねとし)に新陰流兵法の印可相伝(いんかそうでん)し正統第二世としたため、「柳生新陰流」が生まれました。

柳生石舟斎は、1605年に柳生兵庫助利厳(やぎゅうひょうごのすけとしとし)を正統第三世とし、彼を江戸柳生に対する尾張柳生の祖としています。

脇にそれますが、柳生但馬守宗矩は、柳生石舟斎宗厳の5男として生まれ寛永6(1629)年,従五位下但馬守に任ぜられ,1万石を領し,柳生藩主となっています。

父宗厳が上泉信綱から相伝し,改良した柳生家の新陰流は,宗矩に至って将軍家のいわゆる「御流儀」となりましたがこれは柳生新陰流で伊勢守の新陰流ではありません。

幕府の中枢に深く関与したであろう宗矩には,兵法者の実力を示す事績はほとんど伝わっていません。

柳生兵庫助は、元和元年(1615年)に、尾張藩徳川義直候の知遇を得て兵法師範となり以来、新陰流兵法の太刀は、現在でも名古屋で伝承されているとのことです。