浪曲(ろうきょく)で有名な玉川勝太郎(たまがわかつたろう)の名調子(めいちょうし)
♪♪「利根の川風 袂(たもと)に入れて 月に棹(さお)さす 高瀬舟(たかせぶね)」♪
は、利根川下流域の笹川周辺(ささがわしゅうへん)を語(かた)っています。
坂東太郎(ばんどうたろう)利根川の葭原(よしはら)では、現在、様々(さまざま)な夏鳥(なつどり)の鳴き声がしていますが、実は、この一帯(いったい)は、天保水滸伝(てんぽうすいこでん)「大利根河原の決闘(おおとねがわらのけっとう)」の名場面の舞台でもあるのです。
「天保水滸伝」は、嘉永3年(1850年)に制作された、江戸の講談師(こうだんし)、宝井琴凌(たからいきんりょう)の作品です。
そのあらすじは
「天保十五年(1844年)旧暦八月六日の未明(みめい)に、十手(じって)を預((あず)かる飯岡助五郎(いいおかのすけごろう)とその手下(てした)が乗った一艘(いっそう)の高瀬舟(たかせぶね)が、銚子(ちょうし)を出て、利根川を遡(さかのぼ)り笹川(ささがわ)に到着しました。
その目的は、笹川繁蔵(ささがわのしげぞう)一家(いっか)の捕縛(ほばく)と壊滅(かいめつ)です。
しかし、この情報は事前に笹川方(ささがわがた)にもれていました。
飯岡方の情報をつかんだ笹川方は、小人数(20名)でしたが、「刀・槍・鉄砲」まで用意して待ち伏せしていました。
他方、多人数(水路70名、陸路20名)の飯岡方(いいおかがた)は、名目(めいもく)が捕縛目的のため、「十手(じって)、六尺棒(ろくしゃくぼう)、竹槍(たけやり)」しか用意できていまませんでした。
この装備の違いと待ち伏せの効果もあり、笹川方は、飯岡方をさんざん蹴散らし(けちらし)圧勝(あっしょう)してしまいました。
飯岡方は、4人の死者と多数の重傷者をだして、銚子へ逃げ帰りました。笹川方の死者は、結核末期(けっかくまっき)の平手造酒(ひらてみき)ただ一人でした。」
この講談は大好評でその後この「天保水滸伝」は浪曲(ろうきょく)になり、
玉川勝太郎が「利根の川風袂(たもと)に入れて、月に棹(さお)さす高瀬舟」と語って一世を風靡(いっせいをふうび)します。
また、1959年(昭和34年)に三波春夫(みなみはるお)が、歌謡曲「大利根無情(おおとねむじょう)」を大ヒットさせます。
♪「利根の 川風 よしきりの 声が冷たく 身をせめる
これが浮世か 見てはいけない 西空見れば
江戸へ 江戸へひと刷毛(はけ) あかね雲」♪、
そんな笹川で毎年見られる利根川河原のオオセッカです。
オオセッカという名前から大きな鳥と思われがちですが、全長13cmでスズメよりすこし小さい鳥です。
葦(あし)の茎(くき)に縦(たて)にとまって、時々、空中に舞い上がって鳴きます。
ここでは、毎年観察できますが、この鳥は、環境省レッドリスト絶滅危惧IB類(EN)に指定されているとても稀少な鳥なのです。
また、この鳥は、かっては、日本でしか繁殖しない分布の狭い鳥と言われていたそうです。
千葉県に住んでいるおかげで毎年この鳥を撮影できる喜びを感じざるをえません。
今回は、オオセッカが近くに来てくれなかったので、先年撮影した同じ場所のオオセッカの写真を掲載します。