なかなかなかね野鳥と自然の写真館

疾風怒涛の時代が過ぎ去っていきます。私たちがその中で、ふと佇む時、一時の静寂と映像が欲しくなります。微妙な四季の移ろいが、春や秋の渡りの鳥たちや、路傍の名もない草花にも感じられます。このブログは、野鳥や蝶、花や野草、四季の風景などの写真を掲載しています。

青田とチュウサギ

集落を通り過ぎると、あたり一面、稲が青々と生い茂っています。

その上を風が通り抜けると青い稲がうねりにうねって緑の波のように見えます。
これを青田波といいます。

チュウサギが飛んで来て、青田波の中に着地しました。

そのあたりの「あぜみち」にもチュウサギが何羽も休んでいるようです。

このあぜみちのこちらに一番近くて皆と離れて一羽でいるサギは、眼の先が黄緑色の婚姻色の個体のようです。

あぜに集団でいるチュウサギは、冬羽から夏羽に換羽中の個体のようです。

あぜにいた一羽が飛び立ちました。

続いて皆一斉に飛び去っていきました。。

また、チュウサギたちは別の田んぼにバラバラに降り立ちました。

青田波を背景に飛ぶ真っ白いチュウサギの姿は、夏のいっぷくの清涼剤です。


さて、ここで、夏らしく「青田とサギ」の出てくる怪談話を以下にご紹介いたします。

夏目漱石(なつめそうせき)の「夢十夜(ゆめじゅうや)」の第三夜のお話です。ちょっと冷やっこい話です。




第三夜

 こんな夢を見た。
 六つになる子供を負おぶってる。たしかに自分の子である。ただ不思議な事にはいつの間にか眼が潰つぶれて、青坊主(あおぼうず)になっている。自分が御前の眼はいつ潰(つぶ)れたのかいと聞くと、なに昔からさと答えた。声は子供の声に相違ないが、言葉つきはまるで大人おとなである。しかも対等(たいとう)だ。


左右は青田である。路は細い。鷺(さぎ)の影が時々闇にさす。
田圃(たんぼ)へかかったね」と背中で云った。
「どうして解る」と顔を後ろへ振り向けるようにして聞いたら、
「だって鷺が鳴くじゃないか」と答えた。
すると鷺がはたして二声ほど鳴いた。


自分は我子ながら少し怖(こわ)くなった。こんなものを背負(しょ)っていては、この先どうなるか分らない。どこか打遣(うっちゃ)る所はなかろうかと向うを見ると闇の中に大きな森が見えた。あすこならばと考え出す途端(とたん)に、背中で、
「ふふん」と云う声がした。
「何を笑うんだ」
 子供は返事をしなかった。ただ
「御父(おとっ)さん、重いかい」と聞いた。
「重かあない」と答えると
「今に重くなるよ」と云った。
 自分は黙って森を目標(めじるし)にあるいて行った。田の中の路が不規則にうねってなかなか思うように出られない。しばらくすると二股(ふたまた)になった。自分は股(また)の根に立って、ちょっと休んだ。
「石が立ってるはずだがな」と小僧が云った。
 なるほど八寸角の石が腰ほどの高さに立っている。表には左り日ひヶ窪(くぼ)、右堀田原(ほったはら)とある。闇(やみ)だのに赤い字が明(あきら)かに見えた。赤い字は井守(いもり)の腹のような色であった。
「左が好いだろう」と小僧が命令した。左を見るとさっきの森が闇の影を、高い空から自分らの頭の上へ抛なげかけていた。自分はちょっと躊躇(ちゅうちょ)した。
「遠慮しないでもいい」と小僧がまた云った。自分は仕方なしに森の方へ歩き出した。腹の中では、よく盲目めくらのくせに何でも知ってるなと考えながら一筋道を森へ近づいてくると、背中で、「どうも盲目は不自由でいけないね」と云った。
「だから負(おぶ)ってやるからいいじゃないか」
「負ぶって貰(もらっ)てすまないが、どうも人に馬鹿にされていけない。親にまで馬鹿にされるからいけない」
 何だか厭(いや)になった。早く森へ行って捨ててしまおうと思って急いだ。
「もう少し行くと解る。——ちょうどこんな晩だったな」と背中で独言(ひとりごと)のように云っている。
「何が」と際(きわ)どい声を出して聞いた。
「何がって、知ってるじゃないか」と子供は嘲(あざ)けるように答えた。すると何だか知ってるような気がし出した。けれども判然はっきりとは分らない。ただこんな晩であったように思える。そうしてもう少し行けば分るように思える。分っては大変だから、分らないうちに早く捨ててしまって、安心しなくってはならないように思える。自分はますます足を早めた。
 雨はさっきから降っている。路はだんだん暗くなる。ほとんど夢中である。ただ背中に小さい小僧がくっついていて、その小僧が自分の過去、現在、未来をことごとく照して、寸分の事実も洩もらさない鏡のように光っている。しかもそれが自分の子である。そうして盲目である。自分はたまらなくなった。
「ここだ、ここだ。ちょうどその杉の根の処だ」
 雨の中で小僧の声は判然聞えた。自分は覚えず留った。いつしか森の中へ這入はいっていた。一間(いっけん)ばかり先にある黒いものはたしかに小僧の云う通り杉の木と見えた。
「御父(おとっ)さん、その杉の根の処だったね」
「うん、そうだ」と思わず答えてしまった。
「文化五年辰年(たつどし)だろう」
 なるほど文化五年辰年らしく思われた。
「御前がおれを殺したのは今からちょうど百年前だね」
 自分はこの言葉を聞くや否や、今から百年前文化五年の辰年のこんな闇の晩に、この杉の根で、一人の盲目を殺したと云う自覚が、忽然(こつぜん)として頭の中に起った。おれは人殺(ひとごろし)であったんだなと始めて気がついた途端(とたん)に、背中の子が急に石地蔵のように重くなった。