なかなかなかね野鳥と自然の写真館

疾風怒涛の時代が過ぎ去っていきます。私たちがその中で、ふと佇む時、一時の静寂と映像が欲しくなります。微妙な四季の移ろいが、春や秋の渡りの鳥たちや、路傍の名もない草花にも感じられます。このブログは、野鳥や蝶、花や野草、四季の風景などの写真を掲載しています。

高野山・金剛峯寺

高野山というのは、紀伊山中に開かれた壇上伽藍(だんじょうがらん)金剛峯寺(こんごうぶじ)そして空海の眠る奥の院を中心とする宗教都市です。

標高1000メートル東西6キロ南北3キロの紀伊山中の盆地は、四方に陣ヶ峰(じんがみね)、楊柳山(ようりゅうざん)、弁天岳(べんてんだけ)、天狗岳(てんぐだけ)などの山々が聳(そび)えて八葉蓮華(はちようれんげ)を形どっています。

この地を切り開いたのが、真言宗(しんごんしゅう)の開祖(かいそ)空海(くうかい)です。

日本に密教(みっきょう)を伝えた偉大な宗教家である空海は、後に醍醐天皇(だいごてんのう)により弘法大師(こうぼうだいし)と諡号(しごう)されます。

大師と言うのは、高徳の僧に朝廷から勅賜の形で贈られる尊称の一種で多くは諡号といわれています。

したがって大師号を持つ高僧は、何人もいますが、「大師は弘法に奪われ、太閤は、秀吉に奪われる」という格言のように、一般には大師といえば弘法大師のことをさします。

蛇足(だそく)ですが、厄除け三大師(やくよけさんだいし)という時には、弘法大師ではない大師もいるので注意が必要です。

空海が、密教の本格的な道場を目的として高野山の下賜(かし)を上表(じょうひょう)したのは、弘仁(こうにん)七年(816年)のことです。

高野山を下賜された空海は、弘仁九年(818年)十一月に山に上り、伽藍建立(がらんこんりゅう)に着手して、その地を「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)」から「金剛峯寺(こんごうぶじ)」と命名しました。

伽藍建立が未完のまま承和(じょうわ)二年(835年)空海は亡くなってしまいます。

そこで、建設は、甥(おい)の真然(しんぜん)に引き継がれ、仁和(にんな)三年(887年)ようやく完成します。

昨日のブログに掲載したように、そもそも金剛峯寺は、高野山一山の総称だったのですが、明治時代になって宗制改正のとき全山を代表する寺として、構えの立派な青巖寺が代表に選ばれて、現在も総本山となっているのです。(今の建物は幕末の建造物です)

つまり、現在の金剛峯寺(こんごうぶじ)の前身は、秀吉の生母、大政所(おおまんどころ)の菩提所(ぼだいしょ)として建てられた青巖寺なのです。この寺は、文禄(ぶんろく)二年(1593年)に建立され壮大なものだったそうです。

さらに文久(ぶんきゅう)三年(1863年)に再建されたのが現在の建物です。

以下の写真は、現在の金剛峯寺の写真です。

この寺の石庭は蟠龍庭(ばんりゅうてい)といわれ、我が国最大の庭(2340平方メートル)だそうです。

雲海の中を雌雄一対(しゆういっつい)の龍が奥殿を守っているように表現されているそうです。

龍は四国産の青い花崗岩140個が使用され、雲海は京都の白い砂が使われているとのことです。




オリンパス ミラーレス一眼 OM−E E−M1(パワーバッテリー・ホルダー HLD−7付).ズーム・レンズ  OLYMPUS M Zuiko D 14-42 F3.5-5.6 ii MSCMで撮影。.