単なる「蝶」は、春の季語ですが、夏の蝶は、夏の季語となります。
夏の蝶の代表は揚羽蝶(あげはちょう)です。アゲハチョウは、(ナミ)アゲハ、キアゲハ、クロアゲハ、カラスアゲハなどの総称としても使われているようです。
手賀沼遊歩道近くの畑の花(コスモス?)にキアゲハがまとわりついていました。
蝶と花とは、経営用語でいう「Win-Win」(うぃんーうぃん)の関係にあるようです。
つまり、花は、蝶に「花粉を運んでもらうサービス」に対して、その報酬(ほうしゅう)として蜜(みつ)を支払っている関係といえます。お互いに利益がある関係です。
蝶と花の関係を「ドライ」に捉(とら)えれば、このような関係となるわけですが、禅者から見ればこの関係は少し違ってきます。
以下に、蝶と花を詠(よ)んだ良寛禅師(りょうかんぜんじ)の漢詩をみてみましょう。
花無心招蝶 花は、無心にして蝶を招き
蝶無心尋花 蝶は、無心にして花を尋ねる
花開時蝶来 花 開く時、蝶来り
蝶来時花開 蝶 来る時、花開く
吾亦不知人 吾れもまた人を知らず
人亦不知吾 人もまた吾れを知らず
不知従帝則 知らずして帝の則に従う
(帝則=自然の摂理せつり)
(意訳)花は、無心に蝶を招いています。
蝶も、無心に花を尋ねています。
花が開く時、蝶がやってきて、
蝶がくる時に花が咲きます。
私もまた、誰も知りませんし。
誰も私のことを知りません。
ただ、自然に生きているだけなのです。
この良寛さんの漢詩は、「花無心」を詠(うた)っているわけで、花の中には、何の打算も無いのですし、蝶もまた何の打算も無いわけです。
彼らは自然と一体になり、自然の中に溶け込んでいるのです。
欧米人や、欧米式考え方をしている私たちと禅者とは同じものをみても、捉え方(とらえかた)は相当「異なる」ようです。
人間がどのように考えているかは何の関係もなく、このキアゲハは、黄色の花に吸い寄せられるように何度も何度も吸蜜していました。
「蝶一つ 撫子(なでしこ)の花を 去り得ざる」 (正岡子規)