なかなかなかね野鳥と自然の写真館

疾風怒涛の時代が過ぎ去っていきます。私たちがその中で、ふと佇む時、一時の静寂と映像が欲しくなります。微妙な四季の移ろいが、春や秋の渡りの鳥たちや、路傍の名もない草花にも感じられます。このブログは、野鳥や蝶、花や野草、四季の風景などの写真を掲載しています。

虚空に飛ぶか?木の上のチュウサギ

昨日掲載のコスモス畑にいたチュウサギは、手賀沼遊歩道の木の上にとまりました。

チュウサギも羽を広げると、とても大きな鳥のように見えます。

こずえにとまったチュウサギは、大空を眺めています。

秋の空なのにどんよりした雲に覆われた大空です。

そんなことを何も考えないで虚空を見つめるチュウサギでした。



    其中日記       種田山頭火 より


夜は祇園祭に出かけて白鷺の舞を観た。

あるときは死なむとおもひ
あるときは生きむとねがひ
還暦となりぬ


注)白鷺の舞(しらさぎのまい)は、鷺舞(さぎまい)のことで、八坂神社の祇園祭(ぎおんまつり)にて奉納されたのが最初のようです。本来、中国伝来の舞で、「カササギの舞」だったそうですが、カササギを見たことがなかったので、カササギを白鷺にして舞にしたようです。







喫茶去(きっさこ):虚空(こくう)とモーツァルト・ピアノ協奏曲第27番


モーツァルトのピアノ協奏曲第27番は、澄み切った秋の空のような清清(すがすが)しい彼岸(ひがん)を思わせる音楽です。

今日は以下のCDに収録されているモーツァルトのピアノ協奏曲27番を聴いてみました。

モーツァルト作曲

● ピアノ協奏曲第26番ニ長調 K.537『戴冠式
● ピアノ協奏曲第27番変ロ長調 K.595

 ロベール・カサドシュ(ピアノ)
 ジョージ・セル(指揮)コロンビア交響楽団

 録音時期:1962年11月2-3日
 録音場所:クリーヴランド、セヴェランス・ホール
 録音方式:ステレオ(アナログ/セッション)
SONY Clasics


この演奏を聴いていると、第一楽章の冒頭から美しい天上の音楽が聴こえてきます。
有名なモーツァルト交響曲40番の冒頭をしのぐほどの素晴らしい出だしです。

セル指揮コロンビア(実体はクリーブランドと思われる)交響楽団の清清しい見事な演奏です。

その途中から出てくるカサドシュのピアノも素晴らしく、自己主張しないで、すんなりオーケストラに溶け込でくる、これもまた見事な演奏です。ピアノとオーケストラの絶妙な融合です。

第二楽章のカサドシュのピアノも、とても美しい天上の音楽を聴くようです。

セルもカサドシュも我を忘れて無心に演奏しているように感じます。


この演奏は、道元禅師(どうげんぜんじ)の以下の言葉を思い出させます。


正法眼蔵「(しょうぼうげんぞう)」「摩訶般若波羅蜜(まかはんにゃはらみつ」巻


「先師古仏(せんしこぶつ)云(いわ)く、渾身(うんしん)、口に似て虚空(こくう)に掛り、東西南北の風を問わず、一等に他の為に般若(はんにゃ)を談ず、滴丁東了滴丁東(ていちんとうりょうていちんとう)」

現代語訳(増谷文雄「全訳注 正法眼蔵講談社学術文庫より引用)

「我が先師・古仏(こぶつ)如浄(にょじょう)は、詠(えい)じていった。

「全身は口として虚空にかかり
 東西南北の風を問うことなし
 ひとしく他のために般若(はんにゃ)を談ず
 ちりんちりんまたちりん」

この現代語訳だけでは、分かりにくいと思いますので、その続きを、以下の石井恭二訳「現代文訳 正法眼蔵1」河出文庫から引用します。

「風鈴はどのような風の中にもさまざまな音をならして、聴く者すべてに平等に虚空の覚りを語っている。(中略)この風鈴は、全身智慧である。聴く者すべてに智慧を語り、風鈴自身とともに虚空と一体たらしめている。この風鈴頌(ふうりんしょう)は東西南北全方位を智慧たらしめる四句偈(しくげ)である。」  

また、「摩訶般若波羅蜜(まかはんにゃはらみつ」巻の波羅蜜(はらみつ)は、インド語「パーラミタ」の音写で至彼岸(とうひがん)と漢訳します。

つまり、此岸(しがん=煩悩ぼんのうに満ちたこの世)から悟(さと)りの世界である彼岸(ひがん、涅槃ねはん)の世界に至る(至彼岸)ことを意味します。

このモーツァルトの音楽はまさに「至彼岸」の音楽のように感じます。

このステレオ初期の名演奏は、以下に掲載する、道元の「正法眼蔵(しょうぼうげんそう 「現成公案(げんじょうこうあん)巻中の一節をも思わせます。


仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり」


現代語訳(玉城康四郎編「日本の名著7 道元」 中央公論社)より引用)

仏道を習うことは、自己を習うことである。自己を習うということは、自己を忘れることである。自己を忘れるということは、環境世界に実証されることである。」


今では、モーツァルトのピアノ協奏曲の最後を飾る、名作中の名作といわれるこのピアノ協奏曲第27番は、当時つまりウィーンの聴衆に見放され、自分自身の予約演奏会も開けない、極貧(ごくひん)の時、彼の友人の演奏会に出演させてもらって演奏した曲なのだそうです。

膨大な借金を抱えた晩年(享年35歳)の苦境(くきょう)の中でも、天才モーツァルトの頭の中では、「駆け巡る(かけめぐる)天上の音楽」が奏(かな)でられていたのです。

このCDの演奏は、まさにこの「彼岸の音楽」を再現してくれているようです。

私は、ベートーヴェンの人生の「嵐(Der Strum)」を表現していると言われているピアノソナタ第17番「テンペスト」を聴いた後で、この曲を聴くと、さらに、いっそうの安らぎを感じます。

私は、この曲が大好きです。


「色即是空(しきそくぜくう)空即是色(くうそくぜしき)!」