房総の村のコブシの木の実が真っ赤に色づいています。
コブシの実は、今頃、袋からはじけ明るい赤い実が顔を出します。
この実をめざとく見つけたキビタキのメスが、この実を食べにやってきました。
枝にとまって、食べごろの実をさがしています。
キビタキのとまった場所の前方にその実をみつけたようです。
キビタキは、その実に向かって飛び、すばやく赤い実をクチバシにくわえて、元の位置に戻りました。
キビタキは大きな赤い実をクチバシいっぱいにくわえて得意そうな顔つきをしています。
一旦、その場所で向こうをむいてその実を一気に飲み込んだようです。
こちらを向いたキビタキのクチバシには、赤い実はありませんでした。
満足したキビタキは、すぐに飛び去っていきました。
あっという間の早業(はやわざ)でした。
以下に薄田泣菫(すすきだきゅうきん)の傑作と言われている名詩「ああ大和にしあらましかば」の中のキビタキに関連する一部分だけを掲載します。(格調高い全文は、掲載写真の後に(参考)として掲載しました。)
「ああ大和にしあらましかば」 薄田泣菫
ああ、大和にしあらましかば、
いま神無月(かみなづき)、
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新墾路(にひばりみち)の切畑(きりばた)に、
赤ら橘(たちばな)葉がくれに、ほのめく日なか、
そことも知らぬ靜歌(しづうた)の美(うま)し音色に、
目移しの、ふとこそ見まし、黄鶲(きびたき)の
あり樹の枝に、矮人(ちひさご)の樂人(あそびを)めきし
戯(ざ)ればみを。尾羽(をば)身がろさのともすれば、
葉の漂ひとひるがへり、
籬(ませ)に、木(こ)の間(ま)に、
・・・・・・・・・・・・・
以下の現代語訳は、吉田精一編「近代詩鑑賞辞典」より編集して掲載しました。
もし私が大和にあったならば、今、陰暦十月、
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新しい道のほとりの切りひらいたばかりの畑
そのあたりの橘の木には緑濃い葉の繁みの間から明るい実がのぞき
どこからともなく静かに美しい歌声が聞こえる。
さてその静歌に ふと目を移せば かたわらの樹木の枝に一羽の黄鶲が
さながら小人の道化師のように戯れている。
その身軽さは風に吹かれる落ち葉のようで
垣根や木の間を軽快に飛び回る。
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(参考)
「ああ大和にしあらましかば 」 (薄 田 泣 菫)
ああ、大和にしあらましかば、
いま神無月(かみなづき)、
うは葉散り透く神無備(かみなび)の森の小路を、
あかつき露(づゆ)に髪ぬれて、往きこそかよへ、
黄金(こがね)の海とゆらゆる日、
塵居(ちりゐ)の窓のうは白(じら)み、日ざしの淡(あは)に、
いにし代の珍(うづ)の御經(みきやう)の黄金文字、
百濟緒琴(くだらをごと)に、齋(いは)ひ瓮(べ)に、彩畫(だみゑ)の壁に
見ぞ恍(ほ)くる柱がくれのたたずまひ、
常花(とこばな)かざす藝の宮、齋殿(いみどの)深に、
焚きくゆる香ぞ、さながらの八鹽折(やしほをり)
美酒(うまき)の甕(みか)のまよはしに、
さこそは醉(ゑ)はめ。
新墾路(にひばりみち)の切畑(きりばた)に、
赤ら橘(たちばな)葉がくれに、ほのめく日なか、
そことも知らぬ靜歌(しづうた)の美(うま)し音色に、
目移しの、ふとこそ見まし、黄鶲(きびたき)の
あり樹の枝に、矮人(ちひさご)の樂人(あそびを)めきし
戯(ざ)ればみを。尾羽(をば)身がろさのともすれば、
葉の漂ひとひるがへり、
籬(ませ)に、木(こ)の間(ま)に、──これやまた、野の法子兒(ほふしご)の
化(け)のものか、夕寺深(ゆふでらふか)に聲(こわ)ぶりの、
讀經や、──今か、靜こころ、
そぞろありきの在り人の
魂(たましひ)にしも泌み入らめ。
日は木(こ)がくれて、諸(もろ)とびら
ゆるにきしめく夢殿の夕庭寒(ゆふにはさむ)に、
そそ走(ばし)りゆく乾反葉(ひそりば)の
白膠木(ぬるで)、榎(え)、楝(あふち)、名こそあれ、葉廣(はびろ)菩提樹、
道ゆきのさざめき、諳(そら)に聞きほくる
石廻廊(いしわたどの)のたたずまひ、振りさけ見れば、
高塔(あららぎ)や、九輪の錆(さび)に入日かげ、
花に照り添ふ夕ながめ、
さながら、緇衣(しえ)の裾ながに地に曳きはへし、
そのかみの學生(がくじやう)めきし浮歩(うけあゆ)み、──
ああ大和にしあらましかば、
今日神無月、日のゆふべ、
聖(ひじり)ごころの暫しをも、
知らましを、身に。