春の湿地をコチドリが忙しげに歩いていました。
コチドリは夕方から夜にかけてよく鳴くようです。
「ピーユ、ピーユ、ピピピ、ピーユ」と特徴的な物悲しげな鳴き声を繰り返します。
このもの悲しげな鳴き声は、島崎藤村の東北時代の青春の詩集「若菜集」の草枕の部分に出てくる千鳥を連想させます。
夕波くらく啼く千鳥 われは千鳥にあらねども
心の羽をうちふりて さみしきかたに飛べるかな
若き心の一筋に なぐさめもなくなげきわび
胸の氷のむすぼれて とけて涙となりにけり
心の宿の宮城野よ 乱れて熱き吾身には
日影も薄く草枯れて 荒れたる野こそうれしけれ
ああ孤独の悲痛を 味ひ知れる人ならで
誰にかたらん冬の日の かくもわびしき野のけしき
意訳
夕方の暗い波間に飛びたつ千鳥の鳴き声はいかにももの悲しく聞こえます。私は千鳥ではないけれども、心の羽を大きく動かして、はるか遠くの悲しい東北の地まで飛んできたのです。
若い心があまりにもいちずなので、慰めもないままに嘆き悲しむばかりです。胸のなかはまるで氷がかたまり結ばれているようですが、それがとけて涙のしずくになりました。
しかし今の私の心のふるさとは、この仙台の宮城野の地です。さまざまに思い乱れて熱くなったわが身にとっては、日射しも薄く草枯れの荒涼たる宮城野こそここちよいのです。
この孤独な心の悲しみを味わい知る人のほかには、語ることはできません。それほど冬の日のわびしい宮城野の風景なのです。
このコチドリは春の湿地を歩くコチドリであり藤村の当時の屈折した春の人生を詠んでいる詩との共通点は、あまり無いのかもしれませんが、忙しげに動き回って鳴くコチドリにも春の愁(うれ)いはあるのかもしれません。