なかなかなかね野鳥と自然の写真館

疾風怒涛の時代が過ぎ去っていきます。私たちがその中で、ふと佇む時、一時の静寂と映像が欲しくなります。微妙な四季の移ろいが、春や秋の渡りの鳥たちや、路傍の名もない草花にも感じられます。このブログは、野鳥や蝶、花や野草、四季の風景などの写真を掲載しています。

熟れつつある栗の実

何年か前にこのブログで紹介した我家の近くの栗の大木に今年も会うことができました。

今も元気でたくさんの大きな栗の実をつけています。

でもその隣の敷地は去年の今頃は空き地だったのですが、今は新築の家が5〜6棟分譲されていて、この栗の大木のある敷地に迫ってきています。

「時」の移ろいをしみじみ感じてしまいます。

秋ですねぇ〜!  私も感傷的になっているのでしょうか?

ところで、私が感じている「時」とは、何なのでしょうか?

「過去」「現在」「未来」と連続して移ろうものなのでしょうか?

数学者の岡潔(おかきよし)先生は対談「人間の建設」という本の中で評論家の小林秀雄氏に「時」のことを以下のように話しています。

道元禅師は「正法眼蔵」という、上・中・下と岩波文庫に出ていますが、その本の中で非常に詳しく時のことを調べています。いろいろ言っていますが、時には、この、中までぎっしりつまっている時、これを有時(うじ)という。あると言う字と、時という字を書く。これは漢音で有時(ゆうじ)と読むのですが、仏教は宋音ですから有時(うじ)と読む。有時とは「時、空ならず」、中までぎっしりつまっている。平生の時は麦藁のように中が空っぽだ」と云っています。

チョットだけ道元禅師(どうげんぜんじ)の「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」の「有時」の冒頭をのぞいてみましょう。

古仏言、有時高高峯頂立、有時深深海底行、有時三頭八臂、有時丈六八尺、有時挂杖払子、有時露柱燈籠、有時張三李四、有時大地虚空。いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。丈六金身これ時なり、時なるがゆゑに時の荘厳光明あり。いまの十二時に習学すべし。三頭八臂これ時なり、時なるがゆゑにいまの十二時に一如なるべし。十二時の長遠短促、いまだ度量せずといへども、これを十二時といふ。去来の方跡あきらかなるによりて、人これを疑著せず。疑著せざれども、しれるにあらず。衆生もとよりしらざる毎物毎事を疑著すること一定せざるがゆゑに、疑著する前程、かならずしもいまの疑著に符合することなし。ただ疑著しばらく時なるのみなり。
上記の現代語訳は専門家の本がいくつも出ているので私のような素人の訳は差し控えますが、原文の見事で美しい文章をご覧ください。(専門家の現代語訳は、それぞれ、かなり違った解釈になっていますので、気に入った本を選んでください)

このままではよく分らないと思いますので少しだけ解説します。

有時の巻の中に次のような表現があります。

「時もし去来の相を保任せば、われに有時の而今(にこん)ある。これ有時なり」

現代語訳「もし時が私の内を過ぎ行くものであるとしても、私の内には、常に現在があります。それが有時というものなのです」

「有時」は普通に読めば、「ある時」となるのですが、道元禅師は「有」を「存在」と解釈して、「存在」と「時間」とについて自論を展開しており、現代の哲学者のハイデガーの先取りとも言われています。

時間は時々刻々過ぎ去っていっていきます。それをわれわれは「過去・現在・未来」という概念で理解しています。

しかし厳密に考えると、「過去」は脳の記憶であり、「未来」は脳の思考です。現実に体験しているのは、「現在」しかありません。

その現在見ている存在が時間なのです。

存在は、般若心経(はんにゃしんぎょう)の世界では「色即是空(しきそくぜくう)」なので、時=存在=空となります。

私の見ている「栗の大木」は、そのまま「時」であり「空っぽ」であり「空即是色(くうそくぜしき)」なので、そのまま「実在」なのです。

どうもよく分ったようで分らないのですが、こんなことを考えるのも秋なのですね!