なかなかなかね野鳥と自然の写真館

疾風怒涛の時代が過ぎ去っていきます。私たちがその中で、ふと佇む時、一時の静寂と映像が欲しくなります。微妙な四季の移ろいが、春や秋の渡りの鳥たちや、路傍の名もない草花にも感じられます。このブログは、野鳥や蝶、花や野草、四季の風景などの写真を掲載しています。

手賀沼公園のコブハクチョウのお昼寝

手賀沼公園には多くのコブハクチョウが棲んでいます。

曇り空の午後、公園の岸辺に2羽のコブハクチョウがお昼寝をしようとしています。

2羽ともクチバシを羽の中に入れてすやすやと気持ちよさそうに寝ていました。





喫茶去:一時と全時


先日のブログで道元禅師(どうげんぜんじ)の「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」の「有時」の「時」について考えてみました。

道元禅師は、時は過去・現在・未来と連続しているのではなく「今の存在」が「時」であるとおっしゃっていましたね。

さて、今回はその時の中の「一時」と「全時」について考えてみましょう。

彼は、また正法眼蔵の 現成公案(げんじょうこうあん)の巻で「時である存在」を次のように述べています。


「たき木はい(灰)となる、さらにかえりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪(たきぎ)はさきと見取(けんしゅ)すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといえども、前後際断(さいだん)せり」

「生も一時のくらいなり、死も一時のくらいなり。たとえば冬と春のごとし。冬と春となるとおもわず、春の夏となるといわぬなり。」
           現成公案(げんじょうこうあん)の巻より


ここでいう「一時」は「いっとき」ではなく「全時」なのです。つまり

One time is all time.

です。一時は部分ではなく全体です。

「生も一時のくらいなり」生はそれだけで完璧なひとつの状態なのです。

「死も一時のくらいなり」死もそれだけで完璧なひとつの状態なのです。

つまり、道元禅師は、いまはいま、それがすべてだといっているのです。

時間の経過によって、たきぎが灰になるのではなく。たきぎは、たきぎのままで完結しており、灰が時間経過によって薪が灰になったのではなく、灰は灰の状態で完結していて、それぞれ別の独立しているすべてなのです。

木が灰になり、生きていたのに死んでしまった、「生」が時間経過で「死」になったわけではありません。

生はそのまま生であり、死はそのまま死なのです。

人間はいつか死んでいきます。したがって人間には生と死という裏と表がある。しかし、そのどちらか一方ではなく両面が人間の全存在なのです。死も生も合わせて一本です。

それゆえに、生は生で尽きているためさらに生まれることは無いため「不生」ですし死はそれだけで尽きるているためさらに死ぬことは無いため「不滅」です。

つまり私たちは生と死をあわせもつ存在であり「不生不滅」なのです。

ですから私たちは死を恐れることはないということになるのでしょうね!