なかなかなかね野鳥と自然の写真館

疾風怒涛の時代が過ぎ去っていきます。私たちがその中で、ふと佇む時、一時の静寂と映像が欲しくなります。微妙な四季の移ろいが、春や秋の渡りの鳥たちや、路傍の名もない草花にも感じられます。このブログは、野鳥や蝶、花や野草、四季の風景などの写真を掲載しています。

東京国立博物館と国宝三日月宗近

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上の写真は、コンデジpanasonic LUMIX DMC-FZ300 で手持ち撮影しました。

9月27日、東京国立博物館に行って来ました。

現在、常設展示で、国宝 三日月宗近が展示されています。

私は、高校生の頃、三条宗近(さんじょうむねちか)の刀剣、幻の刀、小狐丸(こぎつねまる)を長唄の小鍛冶(こかじ)で知って、それ以来、一度、三条宗近作の本物の刀剣を観たいと思っていました。

三日月宗近(みかづきむねちか)は、三条宗近作の反り(そり)のある優美で美しい見事な刀です。

博物館の闇の中に浮かび上がる三日月です。



長唄 小鍛冶は以下のどおりです。

小 鍛 冶

天保三年(1831)九月
作詞 二代目 劇神仙
作曲 二代目 杵屋勝五郎

〈本調子〉 
稲荷山(いなりやま)三つの燈火(ともしび)明らかに 心をみがく 鍛冶の道 

子狐丸と末の世に残すその名ぞ著るき 

それもろこしに 伝へ聞く 龍泉太阿(りゅうせんたいあ)はいざ知らず 我が日の本の金工(かなつくり)天国(あまぐに)天の座(あまのざ)神息(しんそく)が 国家鎮護の剣にも 勝りはするとも劣らじと 神の力の相槌を 打つや 丁々しっていころり 

余所(よそ,)に聞くさへ勇ましき 
打つといふ それは夜寒の麻衣 をちの砧も音そへて 打てやうつつの宇津の山 
鄙も都も秋ふけて 降るやしぐれの初もみぢ こがるる色を金床に 火加減湯かげん 秘密の大事 
焼刃渡しは陰陽和合 露にも濡れて薄紅葉 染めていろます金色は 霜夜の月と澄み勝る 
手柄の程ぞ類ひなき 清光りんりん 麗しきは若手の業もの切ものと 四方にその名はひびきけり

私は、この長唄の最初の部分だけは高校生の頃LPで独習しました。今でも部分的に歌えますが、試聴で聴いた本職の歌とは大違いで大下手です。

とても下手なので、もう、練習しても上手に歌えないでしょう。

すでにLPは、処分したので、もう練習は、できません。

CDを購入しようしたのですが、諦めました。


さて、この能の小鍛冶(こかじ)のあらすじは、以下の通りです。


平安時代霊夢を得た一条天皇は勅使(ワキツレ)を遣わし、三条宗近(ワキ)に御剣新造を命じます。

有力な相鎚の居ない宗近は返答を渋りますが、辞すること叶わず、彼は神仏の加護を願って稲荷明神に参詣します。

そこへ現れた一人の童子(前シテ)。早くも勅命のことを知っていた童子は、昔の様々な霊剣、中でも草薙剣の故事を物語り、今度の御剣もそれに劣らぬ品になるだろうと告げます。

童子は神の助力を予告すると、姿を消すのでした。

やがて、宗近が自邸に祭壇を築き、神に祈りを捧げていると、稲荷明神の眷属の霊孤(後シテ)が現れました。

宗近を刀鍛冶の師と仰ぎ、刀剣作成の指南を乞う霊狐。

こうして神の助けを得た宗近は、天下無双の霊剣“小狐丸”を打ち上げます。

完成した御剣は朝廷に献上され、霊孤は稲荷山へと帰ってゆくのでした。




小狐丸は、能にも謡われた伝説の名刀ですが、同名の刀が複数伝わっています。

国宝 三日月宗近は、伝説でなくここで観ることができます。

以下、ネットの
刀剣ワールドの説明からその一部を引用します。




三日月宗近」は、平安時代の刀工「三条宗近」が打った太刀(たち)で、 「天下五剣」の1振に数えられています。

天下五剣とは、数ある中でも特に名刀と言われている日本刀で、数珠丸恒次(じゅずまるつねつぐ)、童子切安綱(どうじぎりやすつな)、鬼丸国綱(おにまるくにつな)、大典太光世(おおでんたみつよ)、そして三日月宗近のことです。

三日月宗近の作刀時期は10~12世紀と言われています。刀身に「鎬」(しのぎ)と「反り」のある日本刀としては最古の作品のひとつで、江戸時代の書物「享保名物帳」にも名を連ねています。
享保名物帳とは、江戸幕府8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)の命を受けて編纂された権威ある名刀リストのこと。記載している刀剣のうち250振を「名物」として格付けしていました。

三日月宗近の号「三日月」は、雲の合間に浮かぶ三日月のように見える刃文が由来。その美しさは、「天下五剣の中でも最上級」、「名物中の名物」と称されています。

室町時代の足利家、安土桃山時代の豊臣家、そして江戸時代の徳川家と、時の権力者に寵愛されてきた三日月宗近は、現在「東京国立博物館」に収蔵。1951年(昭和26年)には国宝に指定されました。
いまでは、若い世代からも注目される三日月宗近。その美しい太刀姿を観るため多くの刀剣ファンが刀剣展示会を訪れ、時を忘れて見入ってしまうそうです。

三条宗近は、三日月宗近以外にも数々の刀剣を作刀していますが、その中には現存していないにもかかわらず、伝説として語り継がれて存在感を放つ名刀があります。それは「小狐丸」(こぎつねまる)、「今剣」(いまのつるぎ)、「岩融」(いわとおし)の3振です。

まず、小狐丸は後一条天皇の命により作刀されました。三条宗近と狐の精霊が協力して作刀したという伝説が残っており、その伝説をモチーフにした能の謡曲「小鍛冶」(こかじ)もあります。小鍛冶とは、山で鉄を作る「大鍛冶」(おおかじ)に対するもので、大鍛冶の作った鉄をもとに、様々な道具や刀剣を作った職人達の総称です。

小狐丸は後一条天皇に献上されたのち、九条家という名門貴族の手に渡りましたが、それから行方不明になりました。

次に、今剣は三条宗近に作刀されたあと、現在の京都府京都市左京区にある「鞍馬寺」(くらまでら)に奉納された短刀です。

源義経」(みなもとのよしつね)は、幼少の頃「牛若丸」と呼ばれ、11歳から鞍馬寺で修行をしていました。その際、鞍馬寺から今剣を授けられ、以来愛刀として身に付けていたとのこと。源義経は、平泉(現在の岩手県の南西)で自害するときも、この短刀を用いたと言われています。

最後に、岩融武蔵坊弁慶が振るったとされる、刃の部分だけでも3尺5寸(約1m30cm)もある長大な薙刀。ただし、「義経記」には薙刀ではなく脇差であったとも記述されています。

武蔵坊弁慶岩融に限らず、源義経の今剣、源義経の側室「静御前」の薙刀も三条宗近の作品。源義経と三条宗近の間には、不思議な縁があったのです。