上の写真は、Ymobileスマホのエクスペディア8で撮影しました。
9月29日赤と白の彼岸花が公園に咲いていました。
彼岸花の別名はその花の様子から、「天蓋花(てんがいばな)」「狐の松明(きつねのたいまつ)」「狐のかんざし」「剃刀花(かみそりばな)」など、全国にはたくさんの呼び名があります。
※天蓋……祭壇の上などの装飾用のおおいのこと
また、花のある時期には葉がなく、葉のある時期には花がないという特徴から、「葉見ず花見ず(はみずはなみず)」と呼ばれています。呼び名だけでもかなり妖しい雰囲気が漂います
色別の彼岸花の花言葉
白の彼岸花の花言葉は「また会う日を楽しみに」。
彼岸花(ヒガンバナ・曼珠沙華)について
科・属
ヒガンバナ科・ヒガンバナ属
和名
彼岸花、曼珠沙華
英名
Red spider lily
学名
Lycoris radiata
原産地
中国
開花期
7月~10月頃
彼岸花は、夏の終わりから秋にかけて咲く花。彼岸花の花は、1本の真っ直ぐな緑色の茎の先端に、直径約10cm前後の花を咲かせます。
花びらの色は品種改良が進み種類によって違いますが、日本で多くみられる彼岸花の色は赤。
ヒガンバナ属はラテン読みのリコリスという名前で流通していることがあります。
彼岸花の花びらは他の花に比べて独特。幅は5mm程度、長さは4cm程の花びらを6、7枚放射状に付けます。
茎の長さは30~50cm。成人の膝丈程に伸びます。葉っぱも茎と同様細長く30~50cmのものをつけます。
しかし、面白い事に花が咲く時期に葉っぱはつきません。花が枯れた後ににょきにょきと成長するのです。花と葉が同時に着かない事から「葉見ず花見ず」と言われています。
一般的に彼岸花で流通しているものは、秋の彼岸の頃に赤い花が咲く、リコリス・ラディアータと呼ばれる品種です。
白花の彼岸花はリコリス・アルビフローラと呼ばれる交配種だそうです。
彼岸花という名前が付けられれた経緯は、お盆を過ぎた9月あたり、「彼岸」の時期に咲くから彼岸花と名付けられたとされています。
また、彼岸花の猛毒性に連想されこの花に触れると死ぬしかない。死=彼岸、から名づけられたともされています。
曼珠沙華(まんじゅしゃげ)は仏語から名づけられています。仏教の世界の彼岸花・曼珠沙華は純白。現世で咲く花とは一線を画す見た目になっているそうです。
彼岸花はリコリス属に属していることから園芸上では「リコリス」と呼ばれます。
彼岸花は墓地や畦に植えられていることが多いですね。
彼岸花の球根にはアルカロイド系の毒が含まれており、誤って摂取すると中毒症状を引き起こす可能性があります。
昔の人はモグラやネズミなどから稲や野菜などの作物を守るために、侵入を防ごうとして彼岸花を畦に植えたと言い伝えられています。
また、墓地に植えられているのは同じくモグラやネズミから埋葬された遺体を守るためとのことです。
喫茶去
日本学術会議 とはなにか?
ネットの情報に日本学術会議の政策提言の仕事に携わった人の暴露記事が掲載されていたので、その一部を以下に引用します。
日本学術会議、いっそ改組されたら?
老人会・蛸壺温床・政策提言僅少の「日本ガス抜き会議」
2020.10.6(火)伊東 乾
日本学術会議の存在意義が問われ始めている
日本学術会議が推薦した新会員が首相官邸で覆されて大騒ぎ・・・。
東京大学総長選考の現実には無風の状態で火のない所に煙を立てるのとはわけが違い、これはまた下品なことをしたものだ・・・。
そう思いながら追加報道を見ていたのですが、まあこれが揃いも揃って「日本学術会議」とは何たるものか、およそわきまえない、説明にも何にもなっていない怪説だらけで呆れました。
筆者は2004年、黒川清・日本学術会議会長のもとで「第三次科学技術基本計画」の学術会議分のドラフトを自由に(今ですからハッキリ書きますが、好きなように)加筆改訂させてもらった経験があります。
30代の私に、「縦横に腕を振るってよろしい。責任は俺が取るから」と投げてくれた黒川さんは、本当に器量の人で、のちにも3.11以降の福島など様々な案件で、大変多くご指導をいただきました。
「政策提言を出す」のが、学術会議の仕事です。
この経験のおかげで、政策を書くことに関しては、30代半ば以降かなり慣れました。
知る人は知るように、戦略マン政策職人もやっているわけですが、公務なので連載にはほとんど記しません。
しかし、ごく最近、私は学術会議のとある小委員会を見捨てたばかりです。あまりにもバカバカしいので相手にしないことにしました。
まあ率直に言いますと(定評がありますので)小委員会を作って3年だか6年だか、アクティビティがゼロなので、何とか助けてほしいと頼まれたのです。
六本木の建物で、5省庁から次官級などにも来てもらってシンポジウムも開き、提言も2回まるまる、大がかりなものを、完全に一人で書いてやりましたが・・・。
日本の安全を脅かす日本学術会議を抜本改革せよ
何もできないお歴々が、意味のない難癖をつけるだけであるのに加え、直接頼んできた連中の身勝手と無礼があまりにも酷くなり、バカバカしいので見捨てたのです。
断続的にですが30代から16年ほど、この組織の舞台裏を支えた経験がありますので「学術会議」というものの現実の姿をスケッチしてみます。
●この際だから名前を変えたら?
●英語のサイエンスカウンシルはそのままでよいから
●「日本科学技術政策答申会議」
といった、名が体を表すものに改組したらよろしかろう。
長年お仕えして愛想が尽き、見捨てさせていただいた観点から、極めて穏当な範囲だけ記してみます。
学術会議がダメなところ(1)老人会
私が日本学術会議に最初にコミットしたのは2004年の夏か秋で、東大で副学長を務めていた小宮山宏さんの紹介で、黒川会長を訊ねたのでした。
「イトー君はいろいろできるけれど、東大の中に敵ができちゃったりして、学内では使いにくくなってしまった。でも人材を埋もれさせるのももったいないので、東大よりもっと大きな日本全体の舞台で仕事してみたらよい・・・」というようなご紹介だった記憶があります。
一応、その舞台裏も記しておきます。
これも、もう定年前に早期退職した人物のことなので、問題なく記しますが、私は2001年の春先に、とある女子学生から、教官のセクシャル・ハラスメントを受けて困っていると相談を受けました。
その学生の希望に沿った海外大学(MIT)への紹介などしたところ、私がその事実を知っていると感づいた当の容疑者から、逆レッテル張りで「伊東にはアカデミックハラスメントの疑いがある」と、完全なる冤罪に落とされました。
実はそれ以降19年間、ロクでもない状態が今現在も続いています。
今日ただいまも私は、東大の中に1平米も研究室の部局固有面積がありません。全学共通面積に割り当てられた部屋は、先月から「発熱外来」が棟の1階に作られ、共通の入り口に「発熱している方はここでお待ちください」との立て看板。
可哀そうにうちの学生は部屋に上がるには、そこを必ず通らねばならない仕儀となってしまいました。
学生にそんな危ないことはさせられませんから、別の部屋を取って、理論解析の研究打ち合わせを行っています。
そんな具合に、学内で私を敵視する新左翼などが出、これがまた様々な悪さをしましたので、工学部長だった小宮山さんが保護してくださり、隣接キャンパスにプロジェクトで避難するスペースも(2007年までは)でき、東大は狭いから広い所で仕事するといい、と「放流」してくれたのが、学術会議だったのです。
ここで30代の私は「科学技術基本計画」に加筆し、「世界物理年」日本委員会の幹事となってノーベル賞審査員の碩学たちと仕事し、高校・大学生向けにノーベル賞受賞者が直接教える教室など、様々なプランを実現してきました。
2008年以降、私のノーベル賞解説記事は定番で来週もまた書くつもりですが、それは39~40歳にかけてここで仕事し、世界の学術トップとご縁ができたからにほかなりません。
一言でいうと、私の大学公務は一新しました。
だったら、学術会議は素晴らしいところではないかと言われそうですが、そうではないのです。
学術会議の「新入会員」の平均年齢は、当時で62歳を超えていました。60歳定年の時代です。そして、この会議自体も70歳定年。
つまり、大学を定年退職した高齢者が、名誉職でやって来るのが「学術会議」なんですね。「老人会」なんですね。
お達者クラブが国に政策答申できるか
でも、位置づけは「内閣に日本の科学技術政策を提言する」といった、ビビッドな仕事をしなくてはならない。新人の平均年齢が60歳超の集団がです。
今回、内閣に承認を拒まれた6人にしても
小沢隆一:東京慈恵会医科大学(憲法学)1959- 61歳
岡田正則:早稲田大学(行政法学)1957- 63歳
松宮孝明:立命館大学(刑事法学)1958- 62歳
加藤陽子:東京大学(歴史学)1960- 60歳
芦名定道:京都大学(キリスト教学)1956- 64歳
宇野重規:東京大学(政治学)1967- 53歳
平均60.3歳は私より若い宇野氏が一人で下げているもので、それ以外の5人だと61.8歳、やはり16年前と大差ありません。
そして、この人たちの一人として、政府に政策答申する、米国で考えるならランドコーポレーションのような仕事のプロはいない。
1度目の人生をゴールまで走った後、余生の名誉職でやってきた「学術会議」で、いったいどのような、生き馬の目を抜くようなシビアでシリアスな、また現実に使える、即効性のある政策マン、戦略マンとしての仕事ができるか・・・。
できるわけがない。
(以下省略)
菅内閣で従来の既得権を継承しないのは、当然のことと思います。
私も現役の頃、通産省の有識者会議の一員だったことがあります。
私は、企業の人間ですか、座長は、慶應義塾大学の名誉教授で、委員には東大教授などの人達がいました。
一年だけ、お付き合いしましたが、この会議も無意味な会議と何度も思いました。
この人の言っていることは、ホントのことと思いました。
喫茶去
ウート・ウーギ(Vn)/アンドレーエ/スイス・イタリア語放送管弦楽団
ヴァイオリン協奏曲
ヴァイオリン協奏曲
を聴く
(1) ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.61
(2) チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.35
ウート・ウーギ(vn)
スイス・イタリア語放送管弦楽団
マルク・アンドレーエ(指揮)
録音:1970年11月5日(1)、1981年9月18日(2)、ルガーノ[ステレオ]
ウート・ウーギ(1941~)はイタリアで絶大な人気を誇るヴァイオリニスト。1944年1月21日生まれ、伊・ミラノ出身のヴァイオリン奏者。名門貴族の家に育ち、4歳でミラノ・スカラ座管弦楽団のアリオダンテ・コッジの手ほどきを受け、7歳で初のリサイタルを開催。その後、ジョルジュ・エネスコに師事。シエナのキジアーナ音楽院ではコルラド・ロマーノに学び、パリやウィーンでも研鑽を積む。15歳での欧州演奏旅行以降、欧米の主要都市をはじめ世界各地でオーケストラと共演。サンタ・チェチーリア国立アカデミア教授、パガニーニ国際ヴァイオリン・コンクールの審査員なども務める。また、ヴェネツィアの歴史的文化遺産修復や芸術保護に尽力するなど、音楽活動以外でも活躍。
2016/06/30 (2018/04/23更新) (CDジャーナル)
隠れた名盤と思います。
艶のあるヴァイオリンでとても見事な演奏です。
参考 指揮者 マルク・アンドレーエ
スイスの著名な音楽一家に生まれる。チューリヒ音楽大学で学んだ後、パリでナディア・ブーランジェに、ローマとシエナでフランコ・フェラーラに師事する。1966年、ルドルフ・ケンぺ/チューリヒ・トーンハレ管弦楽団主催の指揮者コンクールで優勝し、1968年には、フィレンツェのAIDEM作曲コンクールで優勝を果たした。
1969~91年スイス・イタリア語放送管弦楽団の音楽監督を、1990~93年ミラノ・アンジェリクム管弦楽団の芸術監督を歴任し、1989年よりエンガディン交響楽団の正指揮者を務めている。1999/2000シーズンのゲッティンゲン交響楽団のコンダクター・イン・レジデンスとなり、2001年には自らイタリア・スブリア交響楽団を設立した
喫茶去
ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲第7番「大公」 中村紘子(p)海野義雄(vn)堤剛(vc)を聴く
当時の日本を代表する3人による三重奏曲。カザルストリオなどのソリストが集った奔放さはないけれど、スケール感や密なアンサンブル、そして緊張感を備えたしっかりとした演奏を聴かせています。
大公は、名曲ですねぇ!
喫茶去
ギュンターヴァント指揮
ベートーヴェン:交響曲全集
ギュンター・ヴァント指揮北ドイツ放送交響楽団
ギュンターヴァントのプロフィール
指揮者。1912年独エルバーフェルト生まれ。2002年2月14日没。ヴッパータールとケルン大学で音楽と哲学、ケルンの音楽大学で作曲とピアノを学ぶ。ケルン市立歌劇場、ザルツブルクの州立歌劇場、モーツァルテウム管弦楽団を歴任。終戦後はケルン市の音楽監督の地位につき、同市の音楽復興に寄与。のちにハンブルクの北ドイツ放送交響楽団終身名誉指揮者に。晩年は伝統的なドイツ音楽を継承する最後の指揮者として活躍した。
2012/08/30 (2014/01/10更新) (CDジャーナル)
1986~1990年デジタル録音。リマスターにより、どの作品も切れ味鋭くかつ力強い音調を獲得した注目盤。揺ぎ無い構築感と強力なエネルギーーが最高で、特にコントラバスの凄みのある音は注目されるところです。
【収録情報】
・ベートーヴェン:交響曲第1番ハ長調 Op.21
・ベートーヴェン:交響曲第2番ニ長調 Op.36
・ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調 Op.55『英雄』
・ベートーヴェン:交響曲第4番変ロ長調 Op.60
・ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調 Op.67『運命』
・ベートーヴェン:交響曲第6番ヘ長調 Op.68『田園』
・ベートーヴェン:交響曲第7番イ長調 Op.92
・ベートーヴェン:交響曲第8番ヘ長調 Op.93
・ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調 Op.125『合唱』
歯切れの良い見事な演奏です。
録音も鮮明で適度な広がりと空気感がある全集です。
どの曲も外れの演奏がありません。