なかなかなかね野鳥と自然の写真館

疾風怒涛の時代が過ぎ去っていきます。私たちがその中で、ふと佇む時、一時の静寂と映像が欲しくなります。微妙な四季の移ろいが、春や秋の渡りの鳥たちや、路傍の名もない草花にも感じられます。このブログは、野鳥や蝶、花や野草、四季の風景などの写真を掲載しています。

輝くハシビロガモ

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上の写真は、一眼レフキヤノンEOS7DマークⅡにCANON EF200mm F2.8L USMを装着し手持ち撮影しました。

2月6日の午後、坂田が池は、上天気。

ハシビロガモがスイスイ泳いていました。この時期、オスが輝いて観えます。

低い太陽のスポットライトを浴びて男前のハシビロガモか浮き上がって観えました。

ハシビロガモの古名に、「めぐりかも」、「くるまかも」、「まいがも」といったものがあります。

これは、ハシビロガモが数羽で円形を描き、ぐるぐると水面上を回っている様子を観察したものです。

実は、この行為は水中のプランクトンを中心部に集め、それを幅の広い嘴の内側の縁にある、くし歯突起(板歯とよびます)で濾過して食べているのです。

 

全てのカモの嘴の内側縁には板歯がありますが、とりわけこのハシビロガモはその密度が高いそうです。

 

喫茶去

而今(にこん)とは何か?

 

而今とは、道元禅師が中国での修行時代に悟った世界観で、意味は「ただ今この瞬間」というような意味です。 

 

道元禅師の言動を記述した「正法眼蔵随聞記」に


「学道の人は、後日を待って行道せんと思ふことなかれ。只、今日今時を過ごさずして、日日時時を勤むべき也。」


仏道を学ぶ人は、後日に修行しょう、などと考えてはいけません、今日、この時をぼんやりと過ごさず、その日、その日を、その時、 その時を、勤めなければなりません。

とあるように、「而今に生きる」ことの大切さを説いてます。

 

而今(にこん)とは、単なる「現在」のことではなく、遠い遠い過去から累積されてきた果てしない「今」であり、また、これから生じていくであろう無限の可能性を秘めた「今」を意味するとのことです。

 

つまり、今、目の前に見える自然界の姿は、過去から未来へ至る無数の「今」を含有した時空の象徴であり、その姿に仏性の究極的本質が宿っていると言っているようです。

私は、而今を考える時、実写のコマを連想しています。

実写フイルムは毎秒24枚の写真が重なって動きを捉えています。

つまり、時間は、過去、現在、未来へと連続的に流れるのではなく、静止画の集まりのように思えます。

時間は連続量ではなく離散量だと思うのです。刹那滅(せつなめつ)の世界なのです。

前後際断しています。

時は、今しかないのです。

いつも臨終と思って生きるのが肝要のように思えます。

今か、その時なのです。

過去も未来も、今が包含しているのです。

 

喫茶去

ハイフェッツベートーヴェンブラームスのヴァイオリン協奏曲を聴く


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1.ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲ニ長調 Op.61
2.ブラームス:ヴァイオリン協奏曲ニ長調 Op.77

ヤッシャ・ハイフェッツ(ヴァイオリン)
シャルル・ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(1)
フリッツ・ライナー指揮シカゴ交響楽団(2)
録音:
1955年11月27&28日、ボストン、シンフォニー・ホール(1)
1955年2月21&22日、シカゴ、オーケストラ・ホール(2)
ステレオ録音

両曲ともに、テンポが速いことでも有名ですが、単なるテクニックの誇示に終わらずに、ベートーヴェンの第1楽章では、シンプルに音階を上下行するだけの箇所からもスリリングな楽興の時を紡ぎ出し、アウアー作にハイフェッツが手を加えた至難なカデンツァを演奏。ブラームスも、その歯切れの良さが圧巻で、ハイフェッツ自作のカデンツァが奏されます。ハイフェッツと共演した二人の巨匠指揮者の存在感も光り輝いています。

 

何度聴いても、素晴らしい演奏です。

いつ聴いても懐かしい演奏です。

只々、快刀乱麻のヴァイオリンに圧倒されます。