なかなかなかね野鳥と自然の写真館

疾風怒涛の時代が過ぎ去っていきます。私たちがその中で、ふと佇む時、一時の静寂と映像が欲しくなります。微妙な四季の移ろいが、春や秋の渡りの鳥たちや、路傍の名もない草花にも感じられます。このブログは、野鳥や蝶、花や野草、四季の風景などの写真を掲載しています。

タチツボスミレ

タチツボスミレ(立坪菫)は、ごく身近に見られるスミレです。丸い葉と立ち上がる茎が特徴のタチツボスミレが、ひっそりと、可憐(かれん)に咲いていたので、撮影してみました。



閑話休題ー「宝塚歌劇」をつくった人について


すみれの花咲く頃」の歌で思いうかべるのが、宝塚歌劇団ですね。

                                 
     ♪ 「春すみれ咲き 春を告げる
        春何ゆえ人は 汝(なれ)を待つ
        楽しく悩ましき 春の夢 甘き恋
        人の心酔わす そは汝
        すみれ咲く春 

        すみれの花咲く頃
        はじめて君を知りぬ ・・・・♪


この甘くてかぐわしいメロディは、「すみれ」の花をみたとき、ふと口ずさみたくなりますね。
でも今回は歌の話ではなく、その基礎を築いた人について書いてみます。

この宝塚は、小林一三(こばやしいちぞう)さんによって、開発されました。彼は、私のとても尊敬している経営者の一人です。

小林一三さん(明治6年〜昭和32年))は、山梨県出身で、阪急阪神東宝グループの創業者です。昭和2年、阪急電鉄社長に就任。昭和4年阪急百貨店、昭和7年東京宝塚劇場(のち東宝)を設立。昭和15年商工大臣、昭和20年戦災復興院総裁等を歴任したそうです。

彼がつづった「宝塚生い立ちの記」は、宝塚の創設から日本を代表する歌劇団として成長していくまでの過程を綴った回顧録です。その中の初めの部分を少し長いですが、引用してみます。

「私が宝塚音楽学校を創(はじ)めてから、今年でちょうど四十一年になる。今日でこそ、大衆娯楽の理想郷としてあまねく、その名を知られている宝塚ではあるが、学校をはじめた当時は、見る影もない寂しい一寒村にすぎなかった。
 そして宝塚という名称は、以前には温泉の名であって、今日のような地名ではなく、しかもその温泉は、すこぶる原始的な貧弱極まるものであった。その温泉の位置はやはり現在の旧温泉のある附近ではあったが、ずっと川の中へ突き出した武庫川の岸にささやかな湯小屋が設けられていて、その傍らに柳の木が一本植わっていた。そして塩尾寺へ登って行く道の傍らに、観世音を祀った一軒の小屋があって、尼さんが一人いた。湯に入るものはそこへ参詣をしてから、流れの急な湯小屋の方へ下りて行ったものだ。その湧出する鉱泉を引いて、初めて浴場らしい形を見せたのは、明治二十五年のことであり、それ以後保養のために集って来る湯治客は、やや増加したとはいうものの、多数の浴客を誘引する設備に欠けていたので、別にめざましい発展も見られなかった。

 その後、阪鶴鉄道の開通とともに、宝塚温泉は急速な発達を遂げて、対岸に宿屋や料亭が軒をならべるに至ったのであるが、明治四十三年三月十日、箕面有馬電気軌道株式会社(現在の京阪神急行電鉄株式会社の前身)の電車開通当時は、武庫川の東岸すなわち現在の宝塚新温泉側はわずかに数軒の農家が点在するのみで、閑静な松林のつづく河原に過ぎなかった。
 箕面有馬電気軌道はその開通後、乗客の増加をはかるためには、一日も早く沿線を住宅地として発展させるより外に方法がなかった。しかし住宅経営は、短日月に成功することはむずかしいので、沿線が発展して乗客数が固定するまでは、やむをえず何らかの遊覧設備をつくって多数の乗客を誘引する必要に迫られた。そしてその遊覧候補地として選ばれたのが、箕面と宝塚の二つであった。こうして箕面にはその自然の渓谷と山林美とを背景にして、新しい形式の動物園が設置され、宝塚には武庫川東岸の埋立地を買収して、ここに新しい大理石造りの大浴場、および瀟洒な家族温泉を新設する計画をたて、明治四十四年五月一日に完成した。当時としてはモダーンな娯楽場として発足したのである。・・・・ 」



このつづきは、ネットで無料で読める「青空文庫」に全文がありますのでご覧ください。

「宝塚」も順調に発展したのではなく、紆余曲折(うよきょくせつ)もありましたが、モットーの「独創」と「努力」により、今日の発展を実現したのです。

何もなかった宝塚のような寒村であっても、偉大な事業家は、今日のような繁栄を作り出すことができるのです。


名経営者の彼の「語録」はたくさんありますが、思いつくまま抜き書きしてみます。とても参考になると思います。


・「世の中は変わる。非常な勢いで変わってゆくのであるから、どう変わる  かを早く見通して、それに適応して行った人間が勝ちである」

・「下足番(げそくばん)を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。  そうしたら、誰も君を下足番にしておかぬ」

・「社会生活において成功するには、その道でエキスパートになる事だ。」

・「いかなる商売を選び、いかなる方法で成功するか、
  それらの具体的な事は、ここでは述べないことにして、僕が新開業の人  にまず申し上げたい事は、いかにもありふれた言葉のようだが、成    功の秘訣(ひけつ)は「独創(どくそう)と努力にある」という事    である。」

・「多くの人は「不景気だ!」といたずらに溜息(ためいき)を吐(つ)い  ているが、しかし「努力の店に不景気なし」ということは、不景気    の今日なお随分とたくさん証明されているのである。不景気なるが    故に、一層「独創と努力」を必要とするのである。殊に小資本をも    っての成功となると、断然「努力」と「独創」である。」

・「およそ商売は確実に行けば行くほど利が薄くなるのは決まりきってい   る。電鉄にしろ、百貨店、劇場にしろ、お客本位に安く売るように    経営すれば、そううまい遺利(いり)のあるはずがない。」

・「私自身の仕事は、電鉄でも百貨店でもみんな大衆本位の仕事をしている  が、大衆本位の事業ほど危険のない商売はない。大衆から毎日現金    をもらってする商売には貸し倒れがあるじゃなし、商売がなければ    ないように舵(かじ)をとってゆけばよい。誠に大衆本位の商売ほ    ど安全なものはないと私は信じている。

  しかしおおよそ安全な商売は利回りの少ないのは当然で、公債の利子が  安いと同じように、電鉄にしても、デパートにしても、また興行にして  も、そううまい遺利(いり)をねらうのは間違っている。」

・「すべて事業というものの目的及び原則は単に営利は駄目である。自他共  に利益することによって繁昌する。すなわち供給の方面にも需要の    方面にも、共に利益があるので進歩し改良されるのである。いや、    むしろ需要者の利益を主として尊重し、計画する方がかえって供給    する人に利益の多いのが原則であらねばならぬ。また実際において世の  中の事業の多くは、そういう具合に出来上がっているものである。」

・「今日の社会はなかなか成功できないと聞くが、成功の道がないとは思わ  れない。例え、無一文でも、事業でもなんでも出来る。」



これらの言葉は、今日では、「当たり前」のことが書いてあるように見えますが、なかなか実行できません。

頭の片隅(かたすみ)に忘れないようにしっかり、しまっておきたいのですが、・・・