なかなかなかね野鳥と自然の写真館

疾風怒涛の時代が過ぎ去っていきます。私たちがその中で、ふと佇む時、一時の静寂と映像が欲しくなります。微妙な四季の移ろいが、春や秋の渡りの鳥たちや、路傍の名もない草花にも感じられます。このブログは、野鳥や蝶、花や野草、四季の風景などの写真を掲載しています。

茂みから出てきたコリンウズラ

 

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上の写真は、キヤノンEOS7DマークⅡに
CANON EF100-400mm F4.5-5.6L IS IIUSMに1.4倍のテレコンを装着し手持ち撮影しました。

 

12月8日、噂の茨城県南部のコリンウズラを見に行ってきました。

運良く茂みから2羽のコリンウズラが出てきました。もう1羽少し小さめの黄色がかったコリンンウズラもちかくの茂みにいたので3羽は家族かもしれません。

ブリタニカ国際大百科事典の解説によれば

 

コリンウズラ

Colinus virginianus; northern bobwhite

は、キジ目ナンベイウズラ科。全長約 20cm。20亜種があって羽色変異も大きいが,代表的な雄は顔が白く,褐色の太い過眼線がある。頭上から背,尾は褐色,上胸部は黒褐色。胸腹部は白く,褐色の鱗状の斑があり,脇には褐色の縦斑がある。雌は,顔が黄褐色で過眼線は褐色。北アメリカ中東部からメキシコキューバグアテマラに分布し,荒れ地や低木と草のよく茂る草原などに多い。狩猟鳥として日本をはじめ,ニュージーランド,ヨーロッパ,北アメリカ西部,西インド諸島などに移入されている。「ぼぶ,ぼぶ,ほわいと」と聞こえる独特の声で鳴くのでよく知られている。英名はこの鳴き声に由来する。

とのことです。

シラコバト

 

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上の写真は、キヤノンEOS7DマークⅡに
CANON EF100-400mm F4.5-5.6L IS IIUSMに1.4倍のテレコンを装着し手持ち撮影しました。

 

12月8日 曇り。埼玉県加須市付近の木にシラコバトが3羽とまりました。

でも2羽はすぐに飛び立ち1羽だけ撮影できました。

 

シラコバトは、環境省レッドリスト絶滅危惧IB類 (EN)に指定されている希少な鳥です。また、埼玉県越谷市の鳥で、天然記念物に指定されています。

 

 シラコバトは、ハト科キジバト属で、淡灰褐色の体をした翼長約20cm、尾長約15cmほどの鳥です。首の後ろに黒い輪状の線があるのが特徴で、江戸時代に外国から輸入されたといわれる鳥です。
 第2次世界大戦後の乱獲により絶滅寸前でしたが、現在では埼玉県東部を中心に千葉県、茨城県、栃木県などの一部まで分布しています。市内では河川周辺や屋敷林の残る地域でわずかですが見ることができます。(埼玉県越谷市のHPより引用)

ホシムクドリ(写真再掲)

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昨年撮影した浮島のホシムクダリ

 

昨日撮影予定の本新のホシムクドリの写真を再掲します。

 

喫茶去   時とは何か?

 

昨日、今日、明日と過去から現在、未来と時は流れてゆくのでしょうか?

 

道元禅師(どうげんぜんじ)の「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」の「有時」の冒頭をのぞいてみましょう。

古仏言、有時高高峯頂立、有時深深海底行、有時三頭八臂、有時丈六八尺、有時挂杖払子、有時露柱燈籠、有時張三李四、有時大地虚空。いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。丈六金身これ時なり、時なるがゆゑに時の荘厳光明あり。いまの十二時に習学すべし。三頭八臂これ時なり、時なるがゆゑにいまの十二時に一如なるべし。十二時の長遠短促、いまだ度量せずといへども、これを十二時といふ。去来の方跡あきらかなるによりて、人これを疑著せず。疑著せざれども、しれるにあらず。衆生もとよりしらざる毎物毎事を疑著すること一定せざるがゆゑに、疑著する前程、かならずしもいまの疑著に符合することなし。ただ疑著しばらく時なるのみなり。

このままではよく分らないと思いますので少しだけ解説します。

有時の巻の中に次のような表現があります。

「時もし去来の相を保任せば、われに有時の而今(にこん)ある。これ有時なり」

現代語訳「もし時が私の内を過ぎ行くものであるとしても、私の内には、常に現在があります。それが有時というものなのです」

「有時」は普通に読めば、「ある時」となるのですが、道元禅師は「有」を「存在」と解釈して、「存在」と「時間」とについて自論を展開しており、現代の哲学者のハイデガーの先取りとも言われています。

時間は時々刻々過ぎ去っていっていきます。それをわれわれは「過去・現在・未来」という概念で理解しています。

しかし厳密に考えると、「過去」は脳の記憶であり、「未来」は脳の思考です。現実に体験しているのは、「現在」しかありません。

その現在見ている存在が時間なのです。

存在は、般若心経(はんにゃしんぎょう)の世界では「色即是空(しきそくぜくう)」なので、時=存在=空となります。

私の見ている「存在」は、そのまま「時」であり「空っぽ」であり「空即是色(くうそくぜしき)」なので、そのまま「実在」なのです。

実在はそのまま悟りなのです。

今をよく見つめ最善を尽くすことが大切のような気がします。

ハイイロチュウヒ(写真再掲)

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昨年撮影した甘田のハイイロチュウヒ

12月6日雨。今日は、甘田にハイイロチュウヒを撮影に行く予定でしたが雨のため延期しました。そこで昨年12月に撮影した写真を再掲しました。

 

尚、以下の文章は、本日、作成した文章です。
 

 

喫茶去 幸せは物欲か?

 

ミクロ経済学の「消費者行動の理論」のいうように、個人は「あらゆるっ物(財)を効用関数にまとめあげ、この関数を編微分しラグランジェ乗数法によって最大化する」ように行動し、希少な財をうまく配分することにより豊かになることを目指しているのでしょうか?

でも、物が足りたら幸せになれるのでしょうか?

現在の私たちの日常生活は「物の豊かさ」により、その中に埋もれ、さらなる欲望を目指そうとしているのかもしれません。

この考え方は、かなりの不具合な世界を生じさせていそうな気がします。

 

お経の般若心経(はんにゃしんぎょう)は、色即是空(しきそくざくう)と謳っています。

 

しかし、人は、最終的に「欲望をゼロにする」ことはできません。

 

そのため仏教の般若心経(はんにゃしんぎょう)の空即是色(くうそくぜしき)の「聖から俗へ」のベクトルの方向で現実にもどる必要があると思います。

この色即是空つまり「俗から聖への浄化の道を経て聖から俗にと何度も生き返ること」が般若の知慧(はんにゃのちえ)のような気もします。

「足るを知る」ことは、とても大事なことのようです。

でも、欲深い私は、なかなかその心境になれません。

今の私は、以下の弘法大師空海」の著作の嘆くままですが、でも、最近「それなりに幸せ」を感じています。いつも弘法大師空海の般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)の言葉で精進しようと思っています。



空海 「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」 序より

 

「三界狂人不知狂 四生盲者不識盲
 生生生生暗生始 死死死死冥死終」

 

 三界(さんがい)の狂人(きょうじん)は狂せるを知らず。 四生(ししょう)の盲者(もうじゃ)は盲(めし)いなるを識(し)らず。
 生まれ生まれ生まれ生まれて生(しょう)の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥(くら)し。

 

注:
三界(さんがい):欲界・色界・無色界の三つの世界
四生(ししょう):胎生=人・動物、卵生=鳥など、湿生=虫など、化生=精霊・妖を言う

 

意訳
 すべての人は自分が狂っていることを知らず、
  すべての生きものは自分がめくらであることに気付かない。
 何度も生まれ変わっても、生きるということがわからない。
 何度も死んでも、死ぬということがわからない。

 

弘法大師空海の般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)の冒頭

 

夫れ、仏法遥かに非ず、心中にして、即ち近し

それ、ぶっぽうはるかにあらず、しんちゅうにして、すなわちちかし。

真如、外に非ず、身を棄てて何にか求めん

しんにょ、ほかにあらず、みをすてていずくにかもとめん。

 

意訳

仏の教えは、遥かに遠いところにあると思われるかもしれませんが、
本当は意外に近いところ、即ち私たちの心の中に存在しているのです。

人間の心の奥深い部分にある潜在意識には、欲も不満も怒りもなく、誰も皆持って生まれた清らかな慈悲と智慧だけがあるのです。

仏様が私たちの心の中にあることは、人は誰でも仏様になれる種を持っている ということです。仏様は人間がどうすれば道理に基づいた正しい生活ができるのかをご存じです




「幸い」も「真理」も私たちの心の中に在るのでしょうか?

ニシキギの紅葉

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上の写真はEOS7D markⅡにEF70-200mm F4L IS USMを装着して撮影しました。

 

最後に残った我が家のニシキギの葉っ紅葉した葉っぱです。

先端の葉は、もう落ちてありません。

 冬の訪れを強く感じる風情です。

 

 喫茶去          見えないところに何かある

ディラックの海 ( Dirac sea )  と経絡(けいらく)

 1928年、ディラック(P.A.M. Dirac)は、電子に対する量子力学の方程式にアインシュタインの「特殊相対性理論」を統合する数式を考え出しました。

この数式は、NHK放映の「神の数式」に登場するCERN(セルン:欧州合同原子核研究機関)の庭の石に刻まれた1番目の数式でディラック方程式と呼ばれています。

この方程式を用いて電子のエネルギーを求めるとマイナスの値が計算上でてくることが知られています。

この異常なマイナス・エネルギー問題の解決のためにディラックは、「空孔理論」と呼ばれる突飛なアイディアを提唱したそうです。

つまり、私たちが真空と考えている状態は、マイナスのエネルギーをもつ無数の電子で埋め尽くされた「海 」になっているというのです。

この「海」は、「ディラックの海 ( Dirac sea ) 」と呼ばれています。  私たちは、真空には何もないと思っていますが、 実は無限の数の電子がすでに「存在」していると考えるのです。

もしこの「海」にプラスのエネルギーを与えると「海」の中の電子は、プラスのエネルギーを持つ普通の電子となって飛びだしてきます。そして飛び出した電子が元あったところには穴が空きます。

このような考えに基づく理論を「空孔理論」と呼びます。

元々マイナスの電荷が占めていたところに穴が空いてマイナスの電荷を持ち去ったので、残りの電子は、プラスの電荷をもった電子と観測されます。 これは、プラスの電荷を持つ粒子が出現したかのように観測されるので、ディラックはそういう「反粒子」と呼ばれる存在があるに違いないと予言しました。
  
1932年、アメリカの物理学者アンダーソンによって、そのような「反粒子」が実際に発見されたのです。  宇宙から降り注ぐ放射線の中に、 正確に電子と同じ質量を持つ、電子と正反対の電荷の粒子があることが分かり、 「陽電子 (positron) 」と名付けられました。  ディラックはその翌年、ノーベル賞を受賞しました。

その後も電荷の値などなにか一つの値のプラス・マイナスだけが通常の粒子と逆になっている反粒子がつぎつぎに見つかりました。

陽電子は今では加速器を使って人工的に大量に作り出すことができます。  十分に高いエネルギーを得て粒子と反粒子がペアで生まれることを「対生成」と呼び、 粒子と反粒子が一緒になって光を放って消えることを「対消滅」と呼びます。

永遠に不滅だと考えられてきた物質が、 真空から新たに生み出されたり、 対消滅して光だけを残して消えてしまうことが分かり、 物理学は粒子の増減をも理論に取り入れた新しい領域に踏み込む必要が出て来ました。

それまで「真空」とは何も無い状態を指すのだと漠然と考えられてきましたが、 そこには粒子を生み出したり消滅させたりする複雑な仕組みが隠されているようです。

つまり、研究の対象が粒子の存在の舞台である時空そのものに 向けられるようになってきたのです。

ディラック反粒子の考え方は、今日「真空では、粒子と反粒子がたえず生成・消滅をくりかえしている空間」と考える「場の量子論」の誕生につながりました。

 

真空は、見えませんがなにかがあるのです。

人体の小宇宙にも見えない何かがあるようです。

 

東洋医学の重要な概念の一つに「気血」があります。気血とはエネルギーと一般に理解されていますが、その気血の流れる通路のことを経絡といい、全身に12本の特性を持った流れがあるようです。

ツボ(経穴)は経絡上の要所にあり体表との開□部であり、全身に 360余り存在するようです。ツボを精細に探れば、臓腑につながる経絡の変調を知ることができ、また逆に、ツボに適切な鍼灸しんきゅう刺激を与えると、体の調整が可能な治療点となるようです。

東洋医学鍼灸治療の発展は不安の時代の解消のため特に期待したいものですね。

 

皇帝ダリア

 

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上の写真は、
キヤノンEOS7D MarkⅡにCANON EF100-400mm F4.5-5.6L IS II USMを装着して手持ち撮影しました。

今、皇帝ダリアが咲いています、大きくて立派な花ですね。

 

喫茶去  和魂洋才について

 

もう12月になりました。

師走になるとNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」を思い出します。

 

NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」は、司馬遼太郎の同名の小説を原作とするドラマで2009年から2011年にかけて、3部構成で年末に放送されました。明治時代初期から日清・日露戦争までが歴史的な舞台として描かれています。

主なキャストは、本木雅弘秋山真之)、阿部寛秋山好古)、香川照之正岡子規)、菅野美穂(子規の妹・律)です。

脇役も豪華メンバーです。

加藤剛伊藤博文)、江守徹山県有朋)、大杉漣陸奥宗光)、竹中直人小村寿太郎)、西田敏行高橋是清)、柄本明乃木希典)、高橋英樹児玉源太郎)、米倉 斉加年(大山巖)、石坂浩二山本権兵衛)、渡哲也(東郷平八郎)、伊東四朗(真之の父)、竹下景子(真之の母)、松たか子(好古の妻)石原さとみ(真之の妻)尾上菊之助(明治天皇),舘ひろし(島村速雄),藤本隆宏(広瀬武雄),小澤征悦夏目漱石)、佐野史郎陸羯南)、榎木孝明(森鴎外),真野響子(乃木の妻)

ナレーション「渡辺 謙」です。

坂の上の雲」の映像はNHKが総力を挙げて制作したドラマで、今後おそらくテレビでこれ以上の作品は作れないように思われます。

ストーリーも制作スタッフも役者も音楽も最高のこのような作品は、滅多にできるものではありません、

この総製作費は250億円とかNHK大河ドラマの10倍ともいわれています。

一般のNHK大河ドラマは一話あたり6000万円で52週間で30億円くらいです。
そのため「坂の上の雲」は、特別の制作予算を3年に分けて計上する必要があったようです。

その主題歌も見事なもので「となりのトトロ」などアニメのジブリ作品の主題歌の作曲などで有名な久石譲を起用し、イギリスの世界の歌姫サラ・ブライトマンに歌わせるという豪華なものです。

なを、坂の上の雲 主題歌「Stand Alone」は、歌:(第1部)サラ・ブライトマン(ヴォカリーズ)(第2部)森麻季 (第3部)久石麻衣の3人で歌われています。

 

             Stand Alone    作詞:小山薫堂

 

 ちいさな光が 歩んだ道を照らす
希望のつぼみが 遠くを見つめていた
迷い悩むほどに 人は強さを掴むから 夢をみる
凛として旅立つ 一朶の雲を目指し

あなたと歩んだ あの日の道を探す
ひとりの祈りが 心をつないでゆく
空に 手を広げ ふりそそぐ光あつめて
友に 届けと放てば 夢叶う
はてなき想いを 明日の風に乗せて

わたしは信じる 新たな時がめぐる
凛として旅立つ 一朶の雲を目指し

 

明治30年6月26日、日本海海戦の参謀秋山真之(あきやまさねゆき)少佐がまだ大尉だった時「アメリカ国留学」被仰付られます。

この年の留学生5名のうちで一番若い秋山大尉が先輩たちに発破をかけた。

 「ワシたちは外国から学ぶだけではなく、それを突破して、外国のエッセンスを自主的に使いこなせるところまで抜けださなければウソでしょう。ワシはアメリカへゆくから、戦略、戦術といった方面で、それをやってみるつもりです」

帰国後、海賊の戦法「海賊流」「三島流」「甲州流」「全流」等の書籍を研究し丁字戦法を考案してバルチック艦隊を撃破します。

私達も和魂洋才(日本人としての精神を堅持しつつ、西洋の学問・知識を受け入れること)の「生き様」を忘れてはならないような気がします。

 

凛りんとして旅立つ 一朶いちだの雲を目指し

 

いい言葉です。