なかなかなかね野鳥と自然の写真館

疾風怒涛の時代が過ぎ去っていきます。私たちがその中で、ふと佇む時、一時の静寂と映像が欲しくなります。微妙な四季の移ろいが、春や秋の渡りの鳥たちや、路傍の名もない草花にも感じられます。このブログは、野鳥や蝶、花や野草、四季の風景などの写真を掲載しています。

ハイイロチュウヒ(写真再掲)

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昨年撮影した甘田のハイイロチュウヒ

12月6日雨。今日は、甘田にハイイロチュウヒを撮影に行く予定でしたが雨のため延期しました。そこで昨年12月に撮影した写真を再掲しました。

 

尚、以下の文章は、本日、作成した文章です。
 

 

喫茶去 幸せは物欲か?

 

ミクロ経済学の「消費者行動の理論」のいうように、個人は「あらゆるっ物(財)を効用関数にまとめあげ、この関数を編微分しラグランジェ乗数法によって最大化する」ように行動し、希少な財をうまく配分することにより豊かになることを目指しているのでしょうか?

でも、物が足りたら幸せになれるのでしょうか?

現在の私たちの日常生活は「物の豊かさ」により、その中に埋もれ、さらなる欲望を目指そうとしているのかもしれません。

この考え方は、かなりの不具合な世界を生じさせていそうな気がします。

 

お経の般若心経(はんにゃしんぎょう)は、色即是空(しきそくざくう)と謳っています。

 

しかし、人は、最終的に「欲望をゼロにする」ことはできません。

 

そのため仏教の般若心経(はんにゃしんぎょう)の空即是色(くうそくぜしき)の「聖から俗へ」のベクトルの方向で現実にもどる必要があると思います。

この色即是空つまり「俗から聖への浄化の道を経て聖から俗にと何度も生き返ること」が般若の知慧(はんにゃのちえ)のような気もします。

「足るを知る」ことは、とても大事なことのようです。

でも、欲深い私は、なかなかその心境になれません。

今の私は、以下の弘法大師空海」の著作の嘆くままですが、でも、最近「それなりに幸せ」を感じています。いつも弘法大師空海の般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)の言葉で精進しようと思っています。



空海 「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」 序より

 

「三界狂人不知狂 四生盲者不識盲
 生生生生暗生始 死死死死冥死終」

 

 三界(さんがい)の狂人(きょうじん)は狂せるを知らず。 四生(ししょう)の盲者(もうじゃ)は盲(めし)いなるを識(し)らず。
 生まれ生まれ生まれ生まれて生(しょう)の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥(くら)し。

 

注:
三界(さんがい):欲界・色界・無色界の三つの世界
四生(ししょう):胎生=人・動物、卵生=鳥など、湿生=虫など、化生=精霊・妖を言う

 

意訳
 すべての人は自分が狂っていることを知らず、
  すべての生きものは自分がめくらであることに気付かない。
 何度も生まれ変わっても、生きるということがわからない。
 何度も死んでも、死ぬということがわからない。

 

弘法大師空海の般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)の冒頭

 

夫れ、仏法遥かに非ず、心中にして、即ち近し

それ、ぶっぽうはるかにあらず、しんちゅうにして、すなわちちかし。

真如、外に非ず、身を棄てて何にか求めん

しんにょ、ほかにあらず、みをすてていずくにかもとめん。

 

意訳

仏の教えは、遥かに遠いところにあると思われるかもしれませんが、
本当は意外に近いところ、即ち私たちの心の中に存在しているのです。

人間の心の奥深い部分にある潜在意識には、欲も不満も怒りもなく、誰も皆持って生まれた清らかな慈悲と智慧だけがあるのです。

仏様が私たちの心の中にあることは、人は誰でも仏様になれる種を持っている ということです。仏様は人間がどうすれば道理に基づいた正しい生活ができるのかをご存じです




「幸い」も「真理」も私たちの心の中に在るのでしょうか?