畑の上空でヒバリが囀っています。
ヒバリは留鳥なので一年中その場所にいるのですが、土色の身体は目立ちにくく自然に溶け込んでしまって春意外はほとんど人に気付かれません。
でも、春になると大空で声高らかに囀ります。
時には、畦道でも囀ります。
小説{草枕}の中で夏目漱石はイギリスのロマン派詩人シェリーの「To a Skylark」(雲雀ひばりに寄せて)の一節
We look before and after
And pine for what is not:
Our sincerest laughter
With some pain is fraught;
Our sweetest songs are those that tell of saddest thought.
を次のように訳しています。
「前を見ては、後(しり)えを見ては、物欲しと、あこがるゝかなわれ。腹からの、笑といえど、苦しみの、そこにあるべし。うつくしき、極みの歌に、悲しさの、極みの想(おもい)、籠(こも)るとぞ知れ」と訳しています。
あの鳥(雲雀)の鳴く音には瞬時の余裕もない。のどかな春の
日を鳴き尽くし、鳴きあかし、又鳴き暮らさなければ気が済まん
と見える。その上どこまでも登って行く。いつまでも登って行く。
雲雀はきっと雲の中で死ぬに相違ない。登りつめた揚げ句は、
流れて雲に入って、漂うて居るうちに形は消えてなくなって、ただ
声だけが空の裡に残るのかも知れない。
雲雀の声を聞いたときに魂のありかが判然する。雲雀の鳴くの
は口で鳴くのではない、魂全体が鳴くのだ。
と書いています。
現在、真っ只中の春!
曇り空でもヒバリは、縄張りを守るため、子孫を残すために体全身で囀っています。
人は、いろんな「しがらみ」の中で生きているのでヒバリの囀りの中にいろんな愁(うれ)いを感じるのかもしれません。
のどかな春の日でも心騒ぐのが人間なのでしょうか?
声だけを残してヒバリは姿を消しました。あたりはのどかないっぱいの春です。
「うらうらに、照(て)れる春日(はるひ)に、ひばり上がり、
心(こころ)悲(かな)しも、独(ひとり)し思へば」
(万葉集 大伴家持)
意訳:うららかに照っている春の日にひばりが空へ上がり、一人でもの思いにふけっていると、なんとなくもの悲しいことだよ
曇り空でも囀るヒバリ
参考:以前撮影した飛翔するヒバリ
参考:以前撮影した畦道で囀るヒバリ
参考:以前撮影した晴天の上空で囀るヒバリ