なかなかなかね野鳥と自然の写真館

疾風怒涛の時代が過ぎ去っていきます。私たちがその中で、ふと佇む時、一時の静寂と映像が欲しくなります。微妙な四季の移ろいが、春や秋の渡りの鳥たちや、路傍の名もない草花にも感じられます。このブログは、野鳥や蝶、花や野草、四季の風景などの写真を掲載しています。

カワウの飛び立ち

手賀沼に浮いていた、カワウが突然飛び立ちました。水に浮いている時に羽を広げると、いったん体が少し水面に沈みます。身体が大きいし、体重もあるので、懸命に、足で水面を蹴りながら、羽ばたきを繰り返します。何度も足で水面を蹴って、ようやく飛び立つことができました。




閑話休題ー  足を知れば辱められずー老子


ベートーヴェンピアノ三重奏曲第7番「大公」1958年、ボン・ベートーヴェン・ハウスでのカザルス(当時、80歳前後)の演奏会のライヴ録音のCDを聴いてみました。この演奏は、名盤として名高い、30年前に録音されているカザルス、ティボー、コルトーの「大公」のCDのような、力強い演奏ではありません。

名盤ではなくても、三人がゆったりと、アンサンブルを楽しんでいる、老大家のベートーヴェンを聴くことができます。カザルスは、高齢なため、技量は衰えていますが、そんなことにはお構いなく自由にゆったりと演奏しています。聴いていてもゆったりとした気分に浸れます。

私も、以前は、30年前の名盤のほうを、よく聴いたのですが、最近は、このCDを、毎日、聴いています。


また、最近、NHK木曜時代劇シリーズ「風の果てー尚、足るを知らず」(2007年10〜12月放送)の再放送を「時代劇専門チャンネル」で見ました。このドラマは、藤沢周平の小説「風の果て」を、主演に佐藤浩市を迎えてドラマ化したもので、軽輩の次男坊でありながら首席家老にまで出世した男の半生を、人生の友を主題に描いていました。出演は石田えり仲村トオル遠藤憲一ほかです。

このドラマ化にあたり、原作にない「ー尚、足るを知らず」が追加されています。

この言葉は、脚本家の竹山洋が、付け加えたことばです。彼はインタヴューで次のように言っています。

「原作を読み考えた。それはなんだと問われると明確な言葉が出ないが、あえて言うと、人間の骨の奥にある、誠心――という言葉かもしれない。誠のようなもの、信義のような、大きな愛のようなもの、そのことを書いてみようと必死にやった。

 「風の果て、尚(なお)、足(たる)を知らず」

 「足るを知れば、こんなに苦労することはなかったろう。しかし、この作品の間、私は幸福だった。作家として初めてのことだった。プロデューサーと監督に深く感謝した。そのことも初めてのことだった。」



この脚本家は、「老子」の「知足不辱(ちそくふじょく)」を下敷きにしていると思われます。

この言葉の意味は、「足(たる)を知れば辱(はずかし)められず」ということです。もう少し詳しく老子の言い分をみてみましょう。



老子 44章 読み下し分より」

名と身とはいずれか親しき

身と貨とはいずれか多なる

得と亡とはいずれか病なる

是故に甚だ愛すれば必ず大いに費え
多く蔵すれば必ず厚く亡う

足るを知れば辱められず
止まるを知れば殆(あやう)からず
以って長久なるべし




「現代日本語訳「タオ 老子」 (加島祥造著)より」

   「もっとずっと大切なもの」


君はどっちが大切かねー
地位や評判かね、
それとも自分の身体かね?

収入や財産を守るためには
自分の身体をこわしてもかまわないかね?

何を取るのが得で
何を失うのが損か、本当に
よく考えたことがあるかね?


名声やお金にこだわりすぎたら
もっとずっと大切なものを失う。

物を無理して蓄めこんだりしたら、
とてもおおきなものを亡くすんだよ。


なにを失い、なにを亡くすかだって?
静けさと平和さ。

このふたつを得るには、
いま自分の持つものに満足することさ。

人になにかを求めないで、これで
まあ充分だと思う人は
ゆったり世の中を眺めて、
自分の人生を
長く保ってゆけるのさ。



自足して「生きる喜び」を得るのは、達人ばかりでしょうか?
私も「尚、足を知らず」の人生を、まだ送っています。