なかなかなかね野鳥と自然の写真館

疾風怒涛の時代が過ぎ去っていきます。私たちがその中で、ふと佇む時、一時の静寂と映像が欲しくなります。微妙な四季の移ろいが、春や秋の渡りの鳥たちや、路傍の名もない草花にも感じられます。このブログは、野鳥や蝶、花や野草、四季の風景などの写真を掲載しています。

外川漁港の2羽のヒメウ

ヒメウは、ウ類の中では、一番沖合いで生活しているそうで、ウミウやカワウより数が少ないため海岸付近でヒメウを見かけるとすれば漁港のような場所になるようです。

銚子漁港でもよく見かけますし、この外川漁港でもよく見かけます。

それでも、いつも見られるわけではないので、ウミウより一回り小さい華奢(きゃしゃ)なヒメウを見ると何か得した気分になります。

今回は2羽一緒に見ることができました。絶滅危惧IB類(EN)(環境省レッドリスト)の希少なウミウが2羽眼前にいます。いつも以上にとても嬉しい気分になりました。

最初、少し離れていたヒメウもかなり接近して泳ぎはじめました。

ヒメウは、雌雄同色なので2羽のヒメウは夫婦なのかもしれません。

この夫婦は、お互い首を伸ばし同じ方向をみています。

明日の幸せを夢見ているのでしょうか?

ヒメウたちの「幸せ」とはなんでしょう。

ヒメウたちは人間のように「お金」がいっぱいあることを希望してはいないでしょう。

ヒメウたちの幸せは、お互いが「満足する」ことではないでしょうか?

いや、動物も人も「経済的に豊か」でなくても「満足する」生活を送ることができそうです。

「満足する水準が低ければ低い」ほど「簡単に満足すること」ができます。

このことは、欲望が低ければ低いほど満足を得やすくなります。つまり欲望が低いほど「幸せ」を感じやすくなるのではないでしょうか?


注)この文章以下の仏教の言葉の解釈は、私の勝手な解釈なので、まあ素人(しろうと)の戯言(ざれごと)としてお読みください。ただ、この考えは仏教学者の立川 武蔵(たちかわ むさし)氏の考えを下敷きにして勝手に解釈していることを付記しておきます。


般若心経(はんにゃしんぎょう)の色即是空(しきそくぜくう)は、「あらゆるものを空(くう)じてゆくベクトルを示しているようです。

空ずることにより、満足する水準が低くなり、「俗から聖に」変化してゆき、「幸せ」が近づいてくるような気もします。

これは、ミクロ経済学の「消費者行動の理論」のいう「あらゆる財を効用関数にまとめあげ、この関数を編微分しラグランジェ乗数法によって最大化する」方向とは、まったく異なる考え方のような気がします。

近代経済学は、希少な財をうまく配分することにより豊かになることを目指しているのでしょうか?

でも、物が足りたら幸せになれるのでしょうか?

現在の私たちの日常生活は「物の豊かさ」により、その中に埋もれ、さらなる欲望を目指そうとしているのかもしれません。

この考え方は、かなりの不具合な世界を生じさせていそうな気がします。

しかし、人でも動物でも「欲望をゼロにする」ことはできません。

そのため空即是色(くうそくぜしき)のベクトルつまり「聖から俗へ」の方向で現実にもどる必要があると思います。

この「俗から聖への浄化の道を経て聖から俗にと何度も生き返ること」が般若の知慧(はんにゃのちえ)のような気もします。

「足るを知る」ことを知ると幸せになりやすいのしょうか?

でも、欲深い私は、なかなかその心境になれません。

今の私は、以下の弘法大師空海」の著作の嘆くままですが、でも、最近「それなりに幸せ」を感じています。



空海 「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」 序より


「三界狂人不知狂 四生盲者不識盲
 生生生生暗生始 死死死死冥死終」


 三界(さんがい)の狂人(きょうじん)は狂せるを知らず。 四生(ししょう)の盲者(もうじゃ)は盲(めし)いなるを識(し)らず。
 生まれ生まれ生まれ生まれて生(しょう)の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥(くら)し。


注:
三界(さんがい):欲界・色界・無色界の三つの世界
四生(ししょう):胎生=人・動物、卵生=鳥など、湿生=虫など、化生=精霊・妖を言う


意訳
 すべての人は自分が狂っていることを知らず、
  すべての生きものは自分がめくらであることに気付かない。
 何度も生まれ変わっても、生きるということがわからない。
 何度も死んでも、死ぬということがわからない。





外川漁港のヒメウ









以前撮影した銚子漁港で飛翔するヒメウ