なかなかなかね野鳥と自然の写真館

疾風怒涛の時代が過ぎ去っていきます。私たちがその中で、ふと佇む時、一時の静寂と映像が欲しくなります。微妙な四季の移ろいが、春や秋の渡りの鳥たちや、路傍の名もない草花にも感じられます。このブログは、野鳥や蝶、花や野草、四季の風景などの写真を掲載しています。

笹川のオオセッカと天保水滸伝

7月27日の天気は、大荒れの天気で、撮影の目的地の東庄町笹川に到着するまでの道中で、ゲリラ豪雨に出会ってしまいました。

「道の駅 佐原」を少し過ぎたあたりから、雨が降り始め、小見川大橋付近では雷、稲妻が、暴れまわり、黒雲から滝のような雨が降りそそぎ、車の前方もとても見にくいようになりました。

幸いにも笹川に近くなるにつれ雨は小降りになり、笹川付近は、まだ、雨になっていませんでした。

利根川の葭原に降りてみるとジュクジュクジュクとオオセッカがさえずっていました。

小見川の方向を見ると黒い雲と稲妻が走っています。雷の音も聞こえます。それでも撮影していましたが、だんだん暗くなってきて、ポツりポツりと雨が降り始めたので、慌てて車に急ぎました。車に乗った途端、雨が激しく降り出しました。危機一髪で、濡れずにすみました。

オオセッカは、以前は絶滅した「幻の鳥」とされ、その後、生息が確認された鳥で、現在は環境省レッドリストで絶滅危惧IB類(EN)に指定されています。

また、全生息数は2500羽といわれていて、全国でも繁殖地は限られているとても貴重な鳥なのです。

そんな貴重の鳥なので、私は、この笹川で、毎年何回も撮影したくなる鳥なのです。

でも、今日は遠雷の声を聞く怖い緊張感の中だったからか撮影に集中できませんでした。そんな時「天保水滸伝(てんぽうすいこでん)」を思い出してしまったので、オオセッカと関係はないのですが、以下に、「天保水滸伝」を徒然なるまま書いてみます。


天保水滸伝大利根河原の決闘」(もう一つの名場面「笹川の花会」は省略)


「天保十五年(1844年)旧暦八月六日の未明に、飯岡助五郎とその手下が乗った一艘の高瀬舟が、利根川を銚子から笹川に遡(さかのぼ)って到着しました。その目的は、笹川繁蔵一家の捕縛と壊滅です。

しかし、この情報は事前に笹川方にもれていました。

小人数(20名)の笹川方は、「刀・槍・鉄砲」まで用意したので、多人数(水路70名、陸路20名)ですが、名目が捕縛目的のため、「十手、六尺棒、竹槍」しか用意できなかった飯岡方をさんざん蹴散らし圧勝してしまいました。

飯岡方は、4人の死者と多数の重傷者をだして、銚子へ逃げ帰りました。笹川方の損傷は、結核末期の平手造酒(ひらてみき)ただ一人でした。」

これが世に言う天保水滸伝大利根河原の決闘」です。



「天保水滸伝」は、嘉永3年(1850年)に江戸の講談師、宝井琴凌(たからいきんりょう)が、「助五郎」、悪玉、「繁蔵」、善玉のモチーフを得て、講談「天保水滸伝」を発表します。


その後、「天保水滸伝」は浪曲になり、玉川勝太郎


「利根の川風袂(たもと)に入れて、月に棹(さお)さす高瀬舟


と語って一世を風靡します。


また、1959年に三波春夫が歌謡曲大利根無情」を大ヒットさせます。


♪「利根の 川風 よしきりの 声が冷たく 身をせめる 
  これが浮世か 見てはいけない 西空見れば 
  江戸へ 江戸へひと刷毛 あかね雲」♪、


7月27日夕刻開催の「隅田川の花火大会」もゲリラ豪雨のため、開催40分くらいて中止となりました。

とんでもない天気がつづいています。

オオセッカの元気な写真を見て、嫌なことは忘れましょうね。