なかなかなかね野鳥と自然の写真館

疾風怒涛の時代が過ぎ去っていきます。私たちがその中で、ふと佇む時、一時の静寂と映像が欲しくなります。微妙な四季の移ろいが、春や秋の渡りの鳥たちや、路傍の名もない草花にも感じられます。このブログは、野鳥や蝶、花や野草、四季の風景などの写真を掲載しています。

クサフジにとまるキマダラセセリ

初夏の路傍の雑草の中に紫色の綺麗な花が見え隠れしています。

鳥の撮影で何度かこの道を歩いているのですが、この花に気付いたことはありませんでした。

それほどひっそりと咲いています。

そこに黒と橙色の蝶が飛んで来ました。

歩いている人は、無関心に通り過ぎるのですが、蝶は見逃してはいないようです。

ひらり、ひらりとこの花のまわりを飛び回っています。

この花の咲いている草にとまりました。


紫の花にとまることを期待したのですが、思いどうりにとまってくれません。

この紫の花は藤ににているのでクサフジという名前の草のようです。

橙色と黒の蝶はキマダラセセリで、セセリチョウの仲間とのことです。





閑話休題ー虎が雨(とらがあめ)


陰暦5月28日ころに降る雨を昔から「虎が雨」とか「曽我の雨」というそうです。


江戸時代の庶民は、この言葉のいわれをよく知っていたようで、歌川広重 東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)大磯 虎ケ雨(おおいそ とらがあめ)之図は、江戸から8番目の宿場「大磯」の絵で、雨降りの風景が描かれています。


また、歌舞伎十八番の「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」において、花川戸助六(じつは曽我五郎時致:ときむね)が蛇の目傘(じゃのめがさ)をさして花道(はなみち)に登場するのも、当時の庶民が「曽我の雨」の故事をよく知っていた証(あかし)かもしれません。


曽我兄弟の仇討(そがきょうだいのあだうち)は、世に、日本三大仇討(にほんさんだいあだうち)のひとつで、「荒木又右エ門(あらきまたえもん)、鍵屋の辻の仇討(かぎやのつじのあだうち)」、「赤穂浪士、吉良邸討ち入り(あこうろうし、きらていうちいり)」とともによく知られ「吾妻鏡(あづまかがみ)」や「曽我物語(そがものがたり)」の中で、語り継がれて(かたりつがれて)きています。


この故事は、「曽我兄弟の仇討ち」があった建久4年(1193)5月28日の天気が雨であったと言われていて、曾我兄弟の兄十郎が新田 忠常(にった ただつね)に切り殺されことを、愛人の白拍子(しらびょうし=遊女)の虎御前(とらごぜん=鎌倉初期の相模国大磯の遊女、「大磯の虎」ともいう」が悲しみ、その涙が雨に なったという言伝えに由来(ゆらい)し、この日には必ず雨が降るという俗信(ぞくしん)が広くあるとのことです。


でも、今年の陰暦の5月28日は、6月25日になるようですが、この日の天気予報 は、雨ではなさそうです。


曽我兄弟の仇討の日が雨だったかどうかはそのころの天気の記録がないので確かめようがないのですが、この日の天気は、雨ではなかったのではないかと疑問視する声もあるようです。

 
建久4年5月28日の天気が雷雨との根拠は、「吾妻鏡」に「雷雨鼓を打ち」とあり、「曽我物語」真名本にも「雨は居(沃)に居て雨(降)る」という記述からきているとのことですが、この年は空梅雨(からつゆ)で、鎌倉の鶴岡八幡宮で「雨乞いの儀式(あまごいのぎしき)」が行われていることから、どうも、吾妻鏡曽我物語の記述は話を面白くするための脚色ではないかというものです。


吾妻鏡」は鎌倉時代の一級資料とされていますが曽我兄弟の仇討ちよりはるか後の鎌倉末期の成立であり、また「曽我物語」は室町時代の成立なのでますます疑問視されてしまいます。


まあ野暮(やぼ)なことは言わないで今週に降る雨は、「虎が雨」でよさそうな気もします。


以下に曽我物語のあらすじを掲載します。


曽我物語 あらすじ

平安時代の末期、伊豆の武士の工藤祐経(くどうすけつね)は伊東祐親(いとうすけちか)に謀(はか)られて所領(しょりょう)を奪われて(うばわれて)しまいます。祐経はその報復に、伊東祐親、河津三郎(かわづさぶろう)父子を殺そうと刺客を放ち、その刺客の矢は河津三郎に命中し彼は落命します。

河津三郎の未亡人はふたりの子どもを連れて相模の曽我祐信(そがすけのぶ)のもとに嫁ぎます。このふたりの子どもが曽我十郎祐成(すけなり)と曽我五郎時致(ときむね)です。

父を失ったとき、兄十郎祐成は5歳、弟五郎時致は3歳でした。

建久4(1193)年、将軍の源頼朝(みなもとよりとも)は富士の裾野(ふじのすその)で巻狩り(まきがり)を行いました。さまざまな苦難を経た末、兄弟は巻狩り期間中の工藤祐経の宿所を探りあて、5月28日の夜、兄弟は祐経の宿所に忍び入り仇を討ちました。苦節18年目にして本懐を遂げた(ほんかいをとげた)のです。

やがて周囲の武士たちが兄弟に斬りかかり、兄の十郎祐成は新田 忠常に斬られてしまいます。五郎時致は剣をかいくぐって頼朝の宿所に突進し、頼朝の側近に捕えられてしまいます。

翌日尋問(じんもん)が行われ、頼朝は五郎が勇気ある武士だということで許そうとしましたが、祐経の子の嘆願(たんがん)により処刑されてしまいます。



この時期に降る雨を「虎が雨」と思って「曽我兄弟の仇討」を偲ぶ(しのぶ)のもまた一興(いっきょう)かもしれません。



最後に、小林一茶(こばやし いっさ)の「虎が雨」を詠んだ3首を記載します。


      「女郎花(おみなえし)つんと立けり 虎が雨」」(小林一茶
       「とし寄りの 袖(そで)としらでや 虎が雨」(小林一茶
         「とらが雨 など軽んじて ぬれにけり」 (小林一茶