なかなかなかね野鳥と自然の写真館

疾風怒涛の時代が過ぎ去っていきます。私たちがその中で、ふと佇む時、一時の静寂と映像が欲しくなります。微妙な四季の移ろいが、春や秋の渡りの鳥たちや、路傍の名もない草花にも感じられます。このブログは、野鳥や蝶、花や野草、四季の風景などの写真を掲載しています。

小春日和のジョウビタキ

11月になって、こ寒い日が多くなってきましたが、この日曜日は、お陽さまが出てきて、ぽかぽかと暖かい、小春日和(こはるびより)になりした。午前中の柔らかい光があたる、岩の上に、チョコンとジョウビタキが、とまりました。まだ、渡来(とらい)したばかりで、身体のオレンジ色も薄い感じです。少し飛んで地上におりました。(最初から4番目までの写真)今年の3月の頃のジョウビタキの鮮やかなオレンジ色(5番目から最後までの写真)になるには、もう少し時間が必要なのでしょうか?。




閑話休題  フランク永井「公園の手品師」

私は、フランク永井の歌が大好きです。
テレビにフランク永井が映るたびに、歌を真似(まね)したりしていました。

昭和53年のNHK紅白歌合戦フランク永井が歌ったのが、「公園の手品師(てじなし)」でした。前からあった歌のようですが、私は、その時始めて聴きました。穏(おだ)やかな良い歌だなぁと感動しました。その後、会社に就職してから、上野のアメ横近くのレコード店に行った時に、たまたま、フランク永井のカセットを見つけました。その中に、「公園の手品師」も入っていました。カセットにしては、三千円を超える値段で、少し高いと思ったのですが、そのカセットを購入しました。

車の中で何度もよく聞きました。いつの間にか、ここに入っている曲は、すべて覚えて歌えるようになりました。歌えるようになると、歌いたくなって、会社帰りのカラオケ・スナックで、フランク永井の歌をよく歌いました。「有楽町で逢いましょう」「君恋し」「おまえに」「夜霧の第二国道」「霧子のタンゴ」「大阪ロマン」「こいさんのラブコール」「東京カチート」・・・

でも「公園の手品師」は、当時のカラオケ・スナックの備えつけ歌詞集にはほとんどありませんでした。たまに、その歌詞のあるスナックに出くわすと、必ず歌ったものです。

実は、この曲が世に出るには、かなりの、紆余曲折(うよきょくせつ)があったのです。

この歌は、昭和29年(1954年)、宮川哲夫作詞 吉田 正作曲の歌で、昭和30年、鶴田浩二が映画「男性NO.1」の中で歌ったのが最初のようです。この時は、この歌は、それほど話題にならなかったようです。その後、ジャズから転向したフランク永井が、師の吉田正から歌謡曲の練習曲として、与えられました。フランク永井は、この曲をとても愛していたようで、自分の歌で、この曲を世に出そうとしていたようです。昭和31年(1956年)に大阪朝日放送の「クレハ・ホームソング」としてフランク・永井の歌で放送され、昭和33年、EPシングルレコードA面「たそがれ酒場」のB面に「公園の手品師」が入るようになりました。でも、このレコードも、話題には、なりませんでした。(今は、このレコードの復刻CDで聴くことができます。)それでも、彼は諦(あきら)めないで、工夫(くふう)を重ねながら、この曲を自分のリサイタルなどで、歌い続け、そのリメイクした「公園の手品師」を、20年後の昭和53年のNHK紅白歌合戦で歌いました。それ以降、この歌は、フランク永井の定番(ていばん)の曲になりました。世に広く認められた訳です。

その放送が、私が初めて、この曲を聴いた番組でした。

昭和33年にA面だった「たそがれ酒場」は、ほとんど忘れ去られましたが、B面の「公園の手品師」は、有名になりました。

この題名の公園の手品師とは「銀杏(いちょう」のことです。



良い曲も、歌い手の熱い思いによって、名曲になっていくものですねぇ