なかなかなかね野鳥と自然の写真館

疾風怒涛の時代が過ぎ去っていきます。私たちがその中で、ふと佇む時、一時の静寂と映像が欲しくなります。微妙な四季の移ろいが、春や秋の渡りの鳥たちや、路傍の名もない草花にも感じられます。このブログは、野鳥や蝶、花や野草、四季の風景などの写真を掲載しています。

茎をやぶって虫を食べるオオジュリン

手賀沼遊歩道脇の葭原を5〜6羽のオオジュリンが飛び回っています。

葦の茎から茎へ飛び回りながら、茎をクチバシで食い千切り、中に潜んでいる虫を捕らえて、食べていました。

食べている時はこちらが近づいても夢中になって食べ続けます。

今の時期は、渡りのための脂肪を蓄える時期なのかもしれません。

手賀沼遊歩道の冬から春にかけての風物詩です。





閑話休題ー時間とは何か?



私たちは、空間や時間の存在を当たり前のこととして、普段の生活で、前提にしています。
つまり、私たちは、縦・横・高さのある三次元の空間に住み、過去から未来に一様に流れる時間に沿って生きていると感じています。

本当にそうなんでしょうか?


道元禅師は、「時」について、「正法眼蔵」の第廿の有時(うじ)で、

「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり」

「山も時なり。海も時なり。時にあらざれば山海あるべからず。山海の而今(にこん)に時あらずとすべからず。時もし壊すれば、山海も壊す。時もし不壊なれば、山海も不壊なり。この道理に明星出現す、如来出現す、眼晴出現す、拈花(ねんげ)出現す。これ時なり。時にあらざれば不恁麼(いんも)なり。」

と述べています。

また、天外 伺朗(てんげ しろう)氏の「宇宙の根っこにつながる瞑想法」によれば、海外でも、いろんな時間の考え方があるようです。

その文章を引用します。(省略改変しています)


1.「ニュートン時間」

時間はどんな条件の下でも常に一定の速さで流れるという考え方を「絶対的時間」または、「ニュートン時間」といいます。

2.「アインシュタイン時間」

重力の強いところにいると、時間の進み方が遅くなります。だとすると、海抜すれすれの低地で生活するほうが、それより重力の弱い高地で生活するよりも少しだけ寿命が長くなることになります。相対性理論から導き出されたこのような時間をと「アインシュタイン時間」呼んでいます。

科学的には「アインシュタイン時間」のほうが正しいのですが、私たちが一般に常識としてもっているのは「ニュートン時間」のほうです。

東京とロンドンとニューヨークとでは時を刻む速さが違う、と疑う人はまずいません。故障でもしていない限り、時計の進み方はどこでも同じだというのが私たちの常識です。もちろん、普通に生活しているぶんには、「ニュートン時間」で何の不都合も生じません。

 ただし、「ニュートン時間」を信じてロケットに乗り、はるか宇宙の彼方へ飛び出す人がいたら、その人は二度と地球へ帰ってこれなくなるでしょう。地上では絶対的と考えられていた「ニュートン時間」も、宇宙空間へ飛び出したとたん使いものにならなくなってしまうからです。私たちの常識は、そのぐらいあてにならないということでしょう。

3.「ベルグソン時間」
 時間には、もう一つ「ベルグソン時間」というのがあります。ベルグソンという人は、十九世紀から二O世紀前半にかけて活躍したフランスの哲学者ですけれども、過去も未来も現在の一瞬にたたみ込まれているという意味のことをいっています。仏教のほうでは、これを「永遠の現在」といっているようですが、どちらかというと、この「ベルグソン時間」の概念が「あの世」のレベルに近いかもしれません

天外 伺朗氏のお話も面白いですね。


30年くらい前に、「超能力研究会」という研究会で、当時ソニーの技術者だった天外 伺朗氏から、直接、そんなお話をお聞きしたのですが、その内容はみんな忘れてしまって、何か「般若心経の色即是空の話」だったような印象だけが残っています。

アインシュタインは晩年

「時間の流れの中で、「今」に特別な意味があるらしいということは、認めざるをえません。ただ、その特別なものが何であるにせよ、それは、おそらく科学の領域外のことなのでしょう。」

と語っているそうです。