なかなかなかね野鳥と自然の写真館

疾風怒涛の時代が過ぎ去っていきます。私たちがその中で、ふと佇む時、一時の静寂と映像が欲しくなります。微妙な四季の移ろいが、春や秋の渡りの鳥たちや、路傍の名もない草花にも感じられます。このブログは、野鳥や蝶、花や野草、四季の風景などの写真を掲載しています。

梅花

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上の写真は、EOS7Dマーク2にCANON EF70-300mm F4.5-5.6 DO IS USMを装着して、手持ち撮影しました。

 2月18日、我孫子駅付近の梅林は、本格的に咲き始めました。梅の花は、古来、いろんな物語を紡いでいます。

 

老梅樹の忽(たちまち)開華のとき、華開世界起(かかいせかいき)なり。華開世界起の時節、すなはち春到(しゅんとう)なり。

「老いた梅の木にたちまち花が開く時、花が開いて世界が起こるのです。花が開いて世界が起こるというその時、すなわち春が来るのです」

 

道元禅師の著した「正法眼蔵」の梅華の巻で、「梅の花、開くのにつれて春もやってくる。春は全て梅のなかに詰まっている」と言っています

つまり、春が来たから梅が咲いたのではなく、梅が咲くから春が来ると言っています。

春が訪れるのを待つのではなく、梅のように、厳しさの中にあっても耐え忍び、自らの華を咲かせることによってはじめて春をもたらすことができると言うのです。

 草木はつぼみに目一杯の命を充満させ、やがてそれを開花させ春をもたらします。わたしたちは自分の素晴らしさ、内に秘められているものに気づきません。

もっと、自らの可能性を信じ、その花を咲かせたいものです。

なぜなら、私たちの心中にすでに仏法を持っているのですから。

 

弘法大師空海は著作の「般若心経秘鍵」のなかで、「仏法遥かにあらず、心中にして即ち近し、真如外にあらず、身を捨ていずくんぞ求めん」と述べておられます。

仏法遥かにあらず、心中にして即ち近し

 

仏の教えは、遥かに遠いところにあると思われるかもしれませんが、本当は意外に近いところ、即ち私たちの心の中に存在しているそうです。

人間の心の奥深い部分にある潜在意識には、欲も不満も怒りもなく、誰も皆持って生まれた清らかな慈悲と智慧だけがあるとのことです。

仏様が私たちの心の中にあることは、人は誰でも仏様になれる種を持っている ということですね。仏様は人間がどうすれば道理に基づいた正しい生活ができるのかをご存じのようです。その方法を仏法というそうです。