なかなかなかね野鳥と自然の写真館

疾風怒涛の時代が過ぎ去っていきます。私たちがその中で、ふと佇む時、一時の静寂と映像が欲しくなります。微妙な四季の移ろいが、春や秋の渡りの鳥たちや、路傍の名もない草花にも感じられます。このブログは、野鳥や蝶、花や野草、四季の風景などの写真を掲載しています。

獲物を求めて飛ぶチュウヒ

冬晴れの空の下、チュウヒが獲物を求めて飛んでいました。

V字を保ちながらゆったりと滑空してゆきます。獲物を観つければ、尾羽をいっぱいに広げて直角に急降下します。

今は、獲物を探して、低空を水平に飛んでいます。この時、チュウヒの顔は、下を向き、フクロウのようなその顔が、集音パラボラのように機能して獲物をみつけます。目で見つけるだけでなく音でも探索できるようです。

千葉県北西部では、冬が深まってくると、絶滅が危惧されている鷹、チュウヒをよく見かけます。

ハシボソガラスより少し大きくV字を保って飛ぶ姿はわりに見つけやすい鷹なのですが、低空を飛行してくるので、遠くからはわかりにくく、気付いたときは、目の前に来ている時もよくあります。

冬の芦原の猛禽の主役チュウヒが、私の家の近くで見られることは、とても嬉しいことです。





閑話休題ー般若心経(はんにゃしんぎょう)について


「般若心経」ほど、一般によく知られよく唱えられる「お経」はありません。

日蓮宗浄土真宗を除いて、どこの宗派でも、このお経を常用経典(じょうようきょうてん)として唱えています。

お葬儀や法事などでも唱えますし、護摩(ごま)やご祈祷(きとう)の時とか、お遍路(へんろ)の時にも唱えたりしています。

また、解説書の出版や雑誌の特集も多く、「般若心経講話」「般若心経解説」などの般若心経関連書籍もよく読まれています。ベストセラーになった本さえあります。

古来、この「般若心経」の解説書は、無数と言っていいほど沢山存在しています。あまりたくさんなので、紹介しきれませんが、日本だけでも、飛鳥時代にすでに、すぐれた解説書があり、平安時代密教の立場から空海(お弘法さん)著作の「般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)」などがあり、その後も江戸時代にいたるまでにも多くの解説書があります。さらに明治時代以降から現代にいたるまでおびただしい解説書があります。

何故これほどの解説書があるのでしょうか?


このお経は、普通のお経の表現ではなく、その内容も無数のとらえ方があるからです。



さて、お経なのですが、一般に、お経つまり経典(きょうてん)は、「お釈迦さん」が説いた教えを記録した仏教聖典とされています。

代表的な経典としては、法句経(ほっくきょう)、阿含経(あごんきょう)、般若経(はんにゃきょう)、維摩経(ゆいまきょう)、涅槃経(ねはんぎょう)、華厳経(けごんきょう)、法華三部経(ほっけさんぶきょう)、浄土三部経(じょうどさんぶきょう)、金剛頂経(こんごうちょうきょう)などがあります。


「お釈迦さん」が説いた教えとされているお経には、一般には、如是我聞(にょぜがもん)といわれる経文(きょうもん)の冒頭に置かれる言葉があります。

如是我聞は、「かくのごとく、我聞けり」の意味で、「お釈迦さんからこのように聞きました。」という言葉から始まります。
(実際は、お経ができたのは、紀元前後以降といわれていて、お釈迦さんの死後なので、聞いたことにして書いた形式的な表現です。)

般若心経も属している般若経典(はんにゃきょうてん)もほとんどすべて如是我聞から始まります。

でも般若心経は、この言葉が省略されていて、お経の正式な表現ではありません。それ故、般若経典の神髄(エッセンス)とか唐の高僧、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)の「大般若経(だいはんにゃきょう)」600巻の精髄(せいずい)とかいわれています。

それでは、一般に流布している玄奘(げんじょう)訳の般若心経の全文を以下に示します。


玄奘以前にも鳩摩羅什(くまらじゅう)の訳など多くの漢訳があるようです。
 玄奘自身の書いた「大唐西域記」の中で般若心経を読誦したことが書かれています。)


仏説摩訶般若波羅蜜多心経

観自在菩薩行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。
舎利子。色不異空・空不異色・色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。
舎利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減。
是故空中。無色無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界。乃至無意識界。無無明。亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。
無智亦無得。以無所得故。菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罣礙。無罣礙故。無有恐怖。遠離一切顛倒夢想。究竟涅槃。

三世諸仏。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。

故知。般若波羅蜜多。是大神呪。是大明呪。是無上呪。是無等等呪。能除一切苦。真実不虚。故説般若波羅蜜多呪。
即説呪曰。羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経


般若心経全文は、以下のように詠(よ)みあげます。


仏説魔訶般若波羅蜜多心経(ぶっせつまかはんにゃーはーらーみたしんぎょう)

観自在菩薩 (かんじーざいぼーさーつー)
行深般若波羅蜜多時 (ぎょうじんはんにゃーはーらーみたじー)
照見五蘊皆空 (しょうけんごーうんかいくう)
度一切苦厄 (どーいっさいくーやく)
舎利子 (しゃーりーしー)
色不異空 (しきふーいーくう)
空不異色 (くうふーいーしき)
色即是空 (しきそくぜーくう)
空即是色 (くうそくぜーしき)
受想行識 (じゅーそうぎょうしき)
亦復如是 (やくぷーにょーぜー)
舎利子 (しゃーりーしー)
是諸法空相 (ぜーしょーほうくうそう)
不生不滅 (ふーしょうふーめつ)
不垢不浄 (ふーくーふーじょう)
不増不減 (ふーぞうふーげん)
是故空中無色 (ぜーこーくうちゅうむーしき)
無受想行識 (むーじゅーそうぎょうしき)
無眼耳鼻舌身意 (むーげんにーびーぜっしんにー)
無色声香味触法 (むーしきしょうこうみーそくほう)
無眼界乃至無意識界 (むーげんかいないしーむーいーしきかい)
無無明 (むーむーみょう)
亦無無明尽 (やくむーむーみょうじん)
乃至無老死 (ないしーむーろうしー)
亦無老死尽 (やくむーろうしーじん)
無苦集滅道 (むーくーしゅうめつどう)
無智亦無得 (むーちーやくむーとく)
以無所得故 (いーむーしょーとくこー)
菩提薩垂 (ぼーだいさったー)
依般若波羅蜜多故 (えーはんにゃーはーらーみーたーこー)
心無罫礙 (しんむーけーげー)
無罫礙故 (むーけーげーこー)
無有恐怖 (むーうーくーふー)
遠離一切顛倒夢想 (おんりーいっさいてんどうーむーそう)
究竟涅槃 (くーきょうねーはん)
三世諸仏 (さんぜーしょーぶつ)
依般若波羅蜜多故 (えーはんにゃーはーらーみーたーこー)
得阿耨多羅三藐三菩提 (とくあーのくたーらーさんみゃくさんぼーだい)
故知般若波羅蜜多 (こーちーはんにゃーはーらーみーたー)
是大神呪 (ぜーだいしんしゅー)
是大明呪 (ぜーだいみょうしゅー)
是無上呪 (ぜーむーじょうしゅー)
是無等等呪 (ぜーむーとうどうしゅー)
能除一切苦 (のうじょういっさいくー)
真実不虚 (しんじつふーこー)
故説般若波羅蜜多呪 (こーせつはんにゃーはーらーみーたーしゅー)
即説呪曰 (そくせつしゅーわー)
掲諦掲諦 (ぎゃーてーぎゃーてー)
波羅掲諦 (はらぎゃーてー)
波羅僧掲諦 (はらそーぎゃーてー)
菩提薩婆訶 (ぼじそわかー)
般若心経 (はんにゃしんぎょう)






以下にウィキソースWikisourceから口語訳を引用してみます。(作者注:最初の部分仏説魔訶は、省略して訳出されています。)




般若心経(はんにゃしんぎょう)

観音菩薩が、深遠なる「智慧の波羅蜜」を行じていた時、
〔命ある者の構成要素たる〕五蘊は空であると見抜いて、
すべての苦悩から解放された。
「シャーリプトラよ、
色は空性に異ならない。空性は色に異ならない。
色は空性である。空性は色である。
受、想、行、識もまた同様である。
シャーリプトラよ、すべての現象(一切法)は空を特徴とするものであるから、生じることなく、滅することなく汚れることなく、汚れがなくなることなく増えることなく、減ることもない。ゆえに空性においては、

色は無く、受、想、行、識も無い
眼、耳、鼻、舌、身、意も無く、
色、声、香、味、触、法も無い
眼で見た世界(眼界)も無く、意識で想われた世界(意識界)も無い
無明も無く、無明の滅尽も無い

"老いと死"も無く、"老いと死"の滅尽も無い
「これが苦しみである」という真理(苦諦)も無い
「これが苦しみの集起である」という真理(集諦)も無い
「これが苦しみの滅である」という真理(滅諦)も無い
「これが苦しみの滅へ向かう道である」という真理(道諦)も無い
知ることも無く、得ることも無い

もともと得られるべきものは何も無いからである

菩薩たちは、「智慧の波羅蜜」に依拠しているがゆえに
心にこだわりが無い
こだわりが無いゆえに、恐れも無く
転倒した認識によって世界を見ることから遠く離れている。

三世の仏たちも「智慧の波羅蜜」に依拠するがゆえに
完全なる悟りを得るのだ。

それゆえ、この「智慧の波羅蜜」こそは
偉大なる呪文であり、
偉大なる明智の呪文であり、
超えるものなき呪文であり、
並ぶものなき呪文である。
すべての苦しみを除き、
真実であり、偽りなきものである。

では、「智慧の波羅蜜」をあらわす呪文を示そう、

"ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー"

(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に正しく往ける者よ、 菩提よ、ささげ物を受け取り給え)

〔ここに智慧の心髄をおわる〕






般若心経は古くからたくさんの日本人に親しまれてきたわりに、その意味を理解している人が少ないのです。

解説書もたくさんあって、般若心経の智慧とは「空の哲学」であると書いてあったりしますが、わかりにくいですね。

空(くう)の入門書もいくつかありますが、比較的入手しやすい角川文庫ソフィア「仏教の思想3空の論理ー中観」梶山雄一、上山春平共著」や佼成出版社「龍樹」石飛道子著がいいと思われます。でも私の経験では、これらを読んで、空がある程度わかっているように思っても期待したほどの感動はないように思います。

般若心経のサンスクリットの原題は,プラジュニャーパーラミター・フリダヤ・スートラPrajñāpāramitā‐hrdaya‐sūtra(般若波羅蜜の心髄たる経典)なので、般若心経の解説書ではないのですが、その精神が書いてある「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」の「摩訶般若波羅蜜(まかはんにゃはらみつ)の第1段」の読み下し文を以下に示します。この解説は、悟(さと)った人の一人である曹洞宗(そうとうしゅう)の開祖、道元(どうげん)禅師著作のものです。

觀自在菩薩の行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆空なり。五蘊は色受想行識なり、五枚の般若なり。照見これ般若なり。この宗旨の開演現成するにいはく、色即是空なり、空是色なり、色是色なり、空即空なり。百草なり。萬象なり。般若波羅蜜十二枚、これ十二入なり。また十八枚の般若あり、眼耳鼻舌身意、色聲香味觸法、および眼耳鼻舌身意識等なり。また四枚の般若あり、苦集滅道なり。また六枚の般若あり、布施、淨戒、安忍、精進、靜慮、般若なり。また一枚の般若波羅蜜、而今現成せり、阿耨多羅三藐三菩提なり。また般若波羅蜜三枚あり、過去現在未來なり。また般若六枚あり、地水火風空識なり。また四枚の般若、よのつねにおこなはる、行住坐臥なり。

なかなかの名文ですが、これを読むと、この解説がさらに必要になりますね。

道元禅師は当時33歳の時に書いたもので、性急に書いておられるため、般若心経そのままの箇所も多いのです。

このお経を熟知している専門家なら、これで十分でしょうが、私たちにはとても難(むずか)しいですね。

ウィキペディア(省略加筆しました。)によると

摩訶般若波羅蜜(まかはんにゃはらみつ)の摩訶は、接頭語で「大きい」を意味する言葉で、意味はありません。般若は、サンスクリット語で प्रज्ञा, prajñā,プラジュニャー; パーリ語: पञ्ञा, paJJaa,パンニャー、漢訳は、一般には智慧(ちえ)といって「さとり」の智慧をいいます。ことに、大乗仏教が起こってからは、般若は大乗仏教の特質を示す意味で用いられ、諸法の実相である空と相応する智慧として強調されてきました。波羅蜜は、サンスクリット語 "pāram"(彼岸に)"ita"(到った)という過去分詞の女性形と読み、此岸(迷い)から彼岸(覚り)に到ることで「到彼岸(とうひがん)」などと訳されます。

つまり「おおいなる智慧の完成」なのです。

道元禅師は、この後2段と第3段で摩訶般若波羅蜜の実践をときますが、解りにくいので省略して、国立民族学博物館名誉教授の立川武蔵著「空の実践}講談社選書メチエを参考にして解説してみます。

般若心経は、いろんな言い回しで「一切(いっさい)が空(くう)である」といっています。

世界は空であり、「老も死もなく 老と死のつきることもない。苦も集も滅も道もなく、智もなく得もない」あらゆるものが、空であると否定的な言葉がならびますが、唯一、肯定的に書かれた部分があります。

三世諸仏。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。
(三世の仏たちも「智慧の波羅蜜」に依拠するがゆえに
完全なる悟りを得るのだ。)

の部分です。

このあと、知恵の完成を讃(たた)える真言がならびますが、この真言は否定していないのです、なにも無いなら真言も無いと否定的にいうのが論理的ですね。

したがって、般若心経の結論は、この肯定している部分にあるようです。つまり、「真言を唱えよという行為の命令」が結論といえるようです。この方法こそが三世の諸仏が悟った道であるようです。


色即是空 空即是色は、空の修行過程(しゅぎょうかてい)かもしれません。あらゆるものがないと否定していくことは、俗から聖への道のり(諸法空相)で、それを再度肯定する過程は聖から俗への過程(諸法実相)といえるのかもしれません。

ですから、「空」の解釈など気にしないで、この般若心経を無心に読誦(どくじゅ)するか、「智慧の完成の真言」を唱えればいいのではないかと思います。


以下に「智慧の完成の真言」を示します。

"ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー"



何かの不安があった時、このお経を読誦すれば、気持ちが落ちついて、元気になれると思います。

願いをこめて無心に合掌(がっしょう)して唱えれば、多くの功徳(くどく)があることでしょう。