タシギが、餌をさがして、水辺をうろついています。ミミズなどをさがして、長いくちばしで泥の中を探っているようです。タシギは、冬鳥または、旅鳥で、全国の水田、湿地、沼地で、5月ころまで見れるようです。
閑話休題ー恩師の思い出
私は算数が苦手(にがて)です。小学校時代から、4教科(算数、国語、理科、社会)の中で、一番苦手の教科でした。自分のまわりの人の多くが、「算数は、きらい。」といっていました。
そんなわけで、私も、友人も、大学入試は、文科系に偏(かたよ)っていました。
私は、経済学部に入ったのですが、近代経済学は、分析道具として、数学を多く使っていることを、入学してから、ようやく、分かりました。だから、苦手な数学がある経済学は、できるだけ避(さ)けて、のんびりと、大学生活をエンジョイしようと、内心では、考えていました。
そこで、経営学なら、数学がいらないと思って、経営学を専攻しました。でも、運命は、「いたずら」が多いようで、いろいろな経緯(いきさつ)がありまして、3年生のゼミは、なぜか、「経営数学」を勉強することになってしまいました。そのときは、「経営数学は」、「たいしたことない」と気楽に考えていました。
その中で私が選んだのは、「投資決定理論」でした。これを選んだ背景には、この理論が、それほどの数学は、必要としないし、あったとしても、キャッシュ・フローの割引計算(わりびきけいさん)くらいがあるだけで、四則演算(しそくえんざん)で簡単に出来ると思ったからです。
3年生の夏休みの後で、「自分で選んだテーマのレポート」を提出することになっていたので、適当に見繕(みつくろ)って、30〜40ページのレポートを提出しました。
そのレポートは、市販の本の中から、「純現在価値法(じゅんげんざいかちほう)」や、「内部利益率法(ないぶりえきりつほう)」や「純将来価値法(じゅんしょうらいかちほう)」などの記述を、適当にまとめたものでした。
ところが、思いがけないことが起こってしまいました。
指導の先生から、「こんなどこにでもある解説の孫引きのようなレポート」は、認められない。」とお叱(しか)りをいただきました。そして、その先生から、「線形計画法(せんけいけいかくほう)を使った資本予算(しほんよさん)の論文」を与えられて、これを読んで、そのレポートを提出しなければ、いけないことになってしまいました。
実は、後でわかったのですが、この論文は、「アメリカの有名大学の博士論文」でした。
その時、先生は、「この論文は、とても易しい初心者の論文だから、君でも読めるだろう。」と言っていました。そのため、すぐに読めると安心していました。
これは、私にとっては、とても、大変な論文でした。実は「線形計画法」は、2年生の時に受講してましたが、「単位を落としていた」教科だったのです。落第生が、博士論文を読めるはずもなくて、まったく歯が立ちません。そこで、論文をいただいた先生に「教えてください。」と相談に行ったら、
「こんなやさしい論文が、読めないなら、うちのゼミでは、やっていけないよ。君以外の3人のゼミ生は、全員、2年生の時の「線形計画法」の成績優秀の「特優」の生徒なんだぞ。」とケンモホロロで、何も教えてくれません。
ゼミは、必修科目なので、この単位を落とすと大学を卒業できません。何とか勉強するのですが、サッパリわかりません。ついに、アルバイトもやめて、毎日、毎日、勉強です。どんなにやっても、どうにもなりません。地獄(じごく)の毎日です。
こんなに頑張っているので、「そのうち、先生も教えてくれるのではないか」と甘い期待もしていたのですが、それでも、何も手を差し伸べてくれません。
それどころか、ゼミに出席しても、私だけができないので、黒板の前で、白墨(はくぼく)をもったまま、できるまで立たされて、「君の頭は、首の上についているだけで、何も考えられないんだね。」とか「君だけに付き合っては、おれないので、そこに立っていなさい、」などと、言われてしまうありさまです。
大学生で「立たされる」ことなどは、夢にも考えていませんでした。「屈辱(くつじょく)」の毎日が、始まりました。(当時、このゼミは、土日の休み以外は、毎日ありました)
そのころ、「バット殺人」という上司をバットで殺害した事件が、新聞にでていました。私も「何も教えてくれなくて、同僚(どうりょう)の前で罵倒(ばとう)する」だけの先生を憎(にく)らしく思い、バットを持って、ゼミに出席しようと思ったこともありました。
(あとで、この指導方法が、この先生の{私への深い愛情」だったとわかるのでが・・・)
苦しい毎日の繰り返しが、一冬(ひとふゆ)続きました。でも、「読書百篇(どくしょひゃっぺん)、意自(いおの)ずから通(つう)ず」という言葉どおり、いつの間にか、この博士論文が、わかるようになりました。
わかってみると、自信もできてきて、毎日のゼミも楽しくて、それからは、非線形計画法、確率計画法、整数計画法、0−1整数計画法、とつぎつぎにわかるようになりました。
卒業論文は、「0−1整数計画法を使った資本予算の一考察」を書くことができ、おかげさまで、なんとか、卒業できました。
この論文は、ワインガルトナーの「インテジャープログラミング・ アンド・ キャピタルバジェティング」をベースに確率計画法の中の「チャンンス・コンストレイント・プログラミング」(機会制約計画法)をあてはめた小論文でした。
この小論文の内容は、投資は、不確実な状況下での意思決定(いしけってい)であり、リスクが含まれるため、経営システムの不確実性をモデル化し、その投資を決定するかしないかを数理計画法で解くというものです。
つまり、投資プロジェクトを一次連立方程式でモデル化して、数理計画法の一手法である確率計画法のパラメータである確率変数を、扱いやすい正規分布に限定した機会制約計画法を、利用して、ゼロかイチかどちらかしかとることができない有界変数(ゆうかいへんすう)を導入した、0−1整数計画法を解く、数理計画問題に置き換えて、コンピュータで解く事例」を扱った論文でした。
その論文が、全国の「経済学学生論文」のひとつに選ばれて、「新潟大学」で発表することになりました。ようやく、皆に、追いつき、追い越すことができました。
その発表のために、その論文に添付する、FORTRANというコンピュータ言語で書かれた、コンピュータ・プログラムを、深夜まで、大学のコンピュータ・センターで作成していましたが、作成に時間がかかりすぎて、間に合いそうもなくなってしまいました。やむなく、終電で帰宅しましたが、明日、間に合うかどうかと心配でたまりませんでした。
翌日、センターに行ってみると、何百枚かのパンチカードが出来上がっていました。女性の事務員に聞いてみると、私を指導してくれていた「先生(当時は助教授、後に名誉教授)が、徹夜で作業していましたよ。先生は、先ほど帰られました。」と聞かされました。そして、その事務員は、「先生は、あなたを一番かわいがっていたからね。」といいました。その時、私は、一瞬「そんな筈はない。」と思いましたが、少し時間がたって、「そうだったのか」と思ったら、涙がとまらなくなりました。
新潟大学での発表は、とても好評で、講評の先生から、「この論文は、学部生の書くレベルを、はるかに超えている論文で、私も、とても、勉強になりました。」と言われました。
先生は、私が、大学院に進学するものと思っていたし、私もそのつもりでいましたが、いろいろな事情があって、民間の会社に就職しました。
民間の会社でも、多くの経営システムの新規プロジェクトにかかわりました。その多くのシステムが、数学や、統計学をつかうシステムでした。需要予測システム、在庫管理の自動制御システム、多変量解析を使った出店計画、工場建設のための解析シミュレーションシステム、コンピュータ・グラフィック・システムなどでした。
仕事の上で、いままで何度も、挫折(ざせつ)しそうになりましたが、この先生に鍛(きた)えていただいたおかげで、乗り越えてこれたのだと思っています。
先生は、今は、引退していますが、とても、お元気のようです。
学生時代の思い出は、今から40年以上も前の、ほろ苦い、懐(なつ)かしい思い出です。